「見捨てられるくらいならなんぼでも女優になって演じてやるわ」と思ってしまう自分が消えません。

見捨てられることは誰でも怖いものですが、実際に見捨てられた経験がある方はなおさら怖れが強くなるものです。
そうすると見捨てられないために演じることが多くなるんですけど、そうすると見捨てられはしないけど愛されてる実感も湧かないんですよね。

根本先生こんばんは。
「自分は邪魔者である」という罪悪感とどう向き合えばいいのか」の記事でお世話になりました。
今でもしんどくなった時、何度も読み返し涙しています。
回答頂いて以来、自分が邪魔者だという感覚はだいぶ薄れたなあと実感しております。ありがとうございます。
しかしながら強敵なのが「いつか見捨てられる」という怖れで。
正直こいつ、相当しぶといです…
見捨てられるくらいならなんぼでも女優になって演じてやるわ、と思ってしまう自分が消えません。
自分の中に「私だけみて、どこにも行かないで、見捨てないで」って叫んでる子がいて、その子の声がデカすぎます。
寂しかったね、辛かったよね、と寄り添うものの一向に声が静まらず、見捨てられたくないのね、じゃあ大人の私が女優魂で乗り切ってやるわ!となってしまい、とても疲れます…
自分が情熱的な愛の人だということも理解しました。化け物級です。
たしかにこんなん一気に向けられたら爪の垢すら残らず焼かれてしまいますよね。
だから先生はよくライフワークのお話をされるのでしょうか。
でも私、趣味も特になく楽しいと思うこと嬉しいと思うことと聞かれると好きな男を癒すこと、と答えてしまいそうです。
焼き殺してしまうのは嫌です…
自分が自分に振り回される感覚はこの子の声のデカさのような気がしてます。
どうしたらこの子は大人しくなってくれるんでしょうか。
ちなみに
仕事の方ではもうゆるゆるの素を出しまくり非常に楽にやっていて、結果もまあ出せるんじゃね?知らんけど。という謎の自信があります。
しかし、なぜか恋愛となるとこうはなれず、頭を抱える日々です…
(Tさん)

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自己完結癖がある人はその内側に「痛み」を隠していて、それを自己防衛して頑固になっているので、同じところをぐるぐる回っちゃいやすいんですよねー。

自己開示って怖いものですし、痛みがあればなおさらで、だから自分で何とかするしかないと思って自分でその痛みを扱おうとするんですけど、でも、痛いからほんとうの部分って扱えなくて蓋をしちゃうんですね。
それが頑固さだし、自己完結癖なのです。

根本先生

仕事が忙しく、ロックマン君は音信不通でイライラが募り、募って登りつめたらセルフプレジャーに行きつき、自分で自分に?ハテナマークが纏わりつき先生のブログに辿り着きました。
知らなかった見え方を沢山頂きました。
本当にありがとうございます。感謝致します。

私はすぐモヤモヤするんです。人との事が苦手です。
ロックマン君は音信不通、と書きましたがもう諦めています。
頑張って会えても(会うのに頑張るって何?)家に帰ってきてクタクタの何故かボロ泣きになってしまうので、何かこれは違う!やめよう!と自らフェードアウトしました。
と、自己完結が多い人生で本当にいいのかな。すぐモヤモヤしては調べて、読んでその場は解決を繰り返しています。

イライラすると古傷が痛むような感覚があります。
過去には友人などに相談しましたが、消化不良に終わったり、悩みすぎだとキレられて疎遠になった事もあります。ですので誰かに話す事もなくなってしまいました。

先生のブログを読んで、一つ一つ書き出しながら解決しようと試みましたが、ぐちゃぐちゃに絡んで何書いていいかわからなくなってしまいました。
受け取れない。とは私の事じゃん。
だから自己完結ループするのか。我儘?
となりました。こう見えてすごく気ぃ遣いです。
しかしモヤモヤせずに超我儘を突き破ったほうがいいのかもと先程ヒラメキました。

なんか私めちゃくちゃなんです。
私ってどんな感じなんでしょうか。
ネタになりましたら幸いです。
(Yさん)

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今まで隠してきた素の自分をどうすればもっと出せるようになるのだろうか?

隠してきたってことはそこに「自己否定」があるわけです。
誰かに否定されたことでも、それを受け入れた自分がいるのですから、まずはその否定を解いてあげる必要があるでしょう。
つまり、今まで出しちゃいけないと思って隠してきた自分を愛しましょう!ということなのです。

根本先生、こんにちは。

真面目なご相談が続く中、しょーもない話で申し訳ないですが、ご助言頂きたくネタ提供させて頂きます。

先日、ものすごく久しぶりに子供を夫に託して夜に友人数名とと飲みに出ました。
それがもう楽しくて楽しくて、一緒にいた友人からは「キラキラしてたよ」と言われる始末です。(セクシャリティが解放されてたのかな、と思って面白かったです)

とはいえ、綺麗にお酒を楽しんでいたわけではなく、下ネタをぶっ放し、記憶もところどころ曖昧です。
異性も交えてではありましたが、一線は越えてません。
ただ夫からの連絡はブッチし、(スマホを見る余裕がないくらい酔ってた)3時過ぎまで飲み歩き、帰宅したのは朝の9時でした。

子供もいるアラフォーのくせに、20代のような飲み方をしてきたわけです。

でも私はそれがすごく楽しかったし、「私ってこういうやつだよな~」とすごく開放感がありました。

肉体的にはやはりアラフォーなため、二日酔いに苦しみながらも、「私は普段の暮らしをすごく窮屈に感じている」ことに気付きました。

私の本質的な部分は、「その日暮らしでワンカップ片手にフラフラしているおっちゃん」みたいなもんで、それなのにたまたま家族を持ってしまった、みたいな感覚があります。

もう少し、この素の自分を出していけたら楽だとは思うのですが、素の自分が社会不適合すぎて、どうやって出していったり統合していったらいいものかわかりません。

自分では不適合者の割にはよくやってる方だとは思います。
でも、たまに母や夫から出る「あなたはそんな子じゃない!ちゃんとした子、やればできる人」のような発言が本当にしんどく感じます。
(Aさん)

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「傷つくかどうかは自分が選択している」という話と「自分軸で生きてる人と自信過剰なイタイ人との違い」という話。

傷つけられた!と思うこともあると思いますが、実はそれ、違うんです。傷つけられるってことはあり得ないんです。
また、自分をよく見せようとしたり、良く思われたいと思うと地に足が着かなくなって背伸びしちゃうので「イタイ人」になりやすいんです。
という2つのネタを1つの記事でお届けします!

根本先生、こんにちは。

最近は朝子供を送り届けた後、コーヒーを淹れてデスクに座ってメールチェックと共に先生のブログを覗くのが毎日の日課になっています。

なんだか上司のような同僚のような近所のパパ友のような…勝手に身近なパイセンに感じているので、今日はふと思ったことを聞いて欲しくてメールしました。

「傷付くことって、自分の責任なんじゃ…?」

と思ったのです。
一見ひどく冷たい言葉なのですがそうではなく良い意味で。
私たちは周りに起こる何らかの出来事によって傷付き、自分を責めたり苦しんだりすると思うのですが、

「傷付くか、傷付かないかは自分で選べるんでは?」と思ったのです。

親が毒親で苦労して小さい頃から傷付いてきた。全然私のことを大切にしてくれない彼氏と付き合って傷付きまくった。上司がパワハラ気味で暴言を吐かれたけど私が悪いからと飲み込んで傷付いてきた。お金がなくてバカにされた。
とかとか
傷付く出来事って人生でたくさんあるとは思うのですが、「その出来事って、本当にこの私が傷付くに値するの出来事なのかな?」と考えたほうがいい気がしてきました。

本当に私が悪くてその出来事が起こった?
もしかするとそもそもその彼氏は人柄が悪くてその他大勢にも失礼な態度をとってたかもしれない、その上司の人生は憐れむべきもので部下や弱い立場の人に当たり散らすしか方法がなかったのかもしれない。

そしてそのような人達と同じような苦しい人生を「私は歩みたくはない」とも思う。

近しい周りの人、特に上司とか親とか先輩とか同僚とか友達とかが言ってることって正しいように思えてしまうけど、その人たちが言うことを間に受けて傷付いたりしてしまうんだけども、その人たちが正しいって、誰が決めた?と思って。

傷付いたのは自分が勝手にその人達の意見を正しいと思って、自分の方が悪いと思った。そして自分で傷付くことを選んだのだなと。

で、そこで、疑問が湧いてきたのです!
自分軸(自己肯定のある人)と、ただの自信過剰で自信満々(=イタイ人)との違いはどこにあるのでしょうか?

自己肯定できるようになりたい、自分軸を確立したいと思う一方で、勘違い野郎にはなりたくないと思います。

自分軸があれば日々の些細なことで傷付かないし、私は悪くないと思えた方が楽だし生きやすいし楽観的で明るい。

でも、客観的に見て何も結果を出してないのに自信満々なイタイ人にはなりたくないし、自己満足だけの脳内お花畑で人生終わりたくない。何か思考のヒントを教えてくだされば幸いです。
(Yさん)

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無意識に現れるパターン(癖)が問題を作っているので、なかなかそれに気付けかないものだし、なかなか自分では変えにくいものなんです。

話をしているだけでその人の持ってるパターン(癖)が見えてくることってよくあります。
「けっこう周りの人に愛されてる人だと思うんだけどなあ」とか「ちょっと人間関係がややこしくなりそう」とかね。
「無くて七癖」と言いますが、そのパターンがうまくいかない原因になってることも多いのです。

リトリートセミナー明けというのは私自身も温泉に入りまくった後のように、沖縄の海を何日も眺めて過ごした後のように、ボーっとしてけだるい感じがして頭がイマイチ動かないものです。

本の執筆を抱えていても書く気になれず、ブログを書こうと思って皆様から頂いているリクエストを眺めても「まあいいじゃん。何とかなるって」と思ってしまうし、まあ、カウンセラーとしては使いものにならないほど緩んでしまってるわけです。

体は元気で、心も軽く、解放されてるのですが、頭を使うことはどうやらイヤみたいです。笑

とはいえ、少しずつ現実に戻ってきていますので、思い付いたネタを今日も書いてみようと思います。
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「私と出会えてよかったね」と素直に言えますか?~女性性を解放し、価値、魅力、才能を受け取る3日間でした~

リトリートセミナーはその期間を通じて流れているテーマがあり、大きくはそのことを学ばされる場になります。
それは意図したものではないので毎回終わるまで分からないのですが、今回はタイトルにあるようなことを仲間たちと一緒に学び、体験しました。

リトリートセミナーって参加者だけじゃなくてこちら側も癒されてしまうので、終わった後はボーっとして幸せな気分になりますし、明らかに物事に対して寛容になってるのが分かりますし、また、不思議なことに人やモノとの巡り合わせも良くなるものです。

エネルギーの流れが整っていい状態になってるんでしょうね。

さて、リトリートセミナーというのは基本的にずーっと個人セッションをやっていきます。
希望者に立ってもらってじゃんけんして勝った方の問題とか相談とか夢とか目標とかをお聴きしてカウンセリングをスタートさせ、その目標を叶えるためにどうしたらいいのか?を私が考え(というか感覚的に捉え)、ロールプレイなどのセッションを作っていきます。

「自立して我慢して抱え込んでめちゃくちゃ一生懸命頑張ってきたら、そりゃあ疲れるよね。そこまで仕事中心に生きてたら交感神経が優位になっちゃって休んでも休み切れないよね?そういうときって男性性がずいぶんと強くなっちゃってるので、女性性を採り入れて自分を緩めてあげるのがいいよね」

なんて話をして「じゃあ、このセミナールームの中で女性的な柔らかい雰囲気を持つ人をまず選んでください」「そしたら“自由”を表す人を選んでください」「次に女神様役を選んでみましょう」みたいな感じで女性性のシンボルとなる人を選んでもらいます。

そして、一人一人と統合していき、女性性を採り入れていくと、表情が一気に柔和になり、穏やかな雰囲気が醸し出され、とても緩んだ感じになります。

その感覚を味わう=自分に教えてあげる=インストールすることによって、忙しい日常の中にもそうした緩むことの意味・意義・大切さを“体感する”のです。

そして、同時にその場にいる参加者の皆さんもそのエネルギーを受けますから、一緒に女性性を受け取り、緩む効果があるわけです。
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「愛情」はちゃんと表現しないと伝わらないけれど、その愛情表現は親から引き継いだものでもある。

絶賛リトリートセミナー開催中です。
朝から晩まで全集中してますのでふだんのブログを書く時間がありません。
(昨夜は懇親会で3時間以上みなさんとしゃべり倒しておりましたし。)

で、こうしたプロセスセミナーってのはその場の空気感、エネルギー、雰囲気の「流れ」というものがあり、個々のシェアはバラバラでもその日を通した「テーマ」が天から与えられるものです。
昨日も親子関係、夫婦関係、仕事・ライフ―ワークと一見全く異なるシェア(ご相談)を頂いたのですが、そこを掘り下げていき、3本を通して眺めてみるとその「テーマ」が浮かび上がってきます。

つまり、これが今回この場に参加されている方の潜在意識・無意識層にある「ここを学びなさい」「ここに気付いておきなさい」「ここを解放しなさい」というテーマなわけです。

これがグループの面白いところであり、深いところです。
むしろ、私の立場はそうした「グループマインドを癒す」という意識を置くもので、それでグループセラピーが大きな効果をもたらすことになるんです。

なので、忘れないうちに昨日のうちにツイートしときました。
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