子どもの頃から大人にならざるを得なかった人生に出てきた「寂しさ」について。



自立するってことは感情を抑圧して生きるということで、依存心を嫌い、切っていくことでもあります。
でも、感情ってのは抑圧されて感じなくなってもなくなるものではないので、いろんな形で目の前に現れてきます。
それが依存的な人の出現でもあり、また、そこはかとない寂しさ、孤独感でもあるのです。

過干渉の母のもとで育ち、祖父母の介護、無職の父、働かない甘ったれの弟の中で育ち、お察しの通り、子どもの頃から大人にならざるを得ませんでした。
いろんなことを犠牲にしました。
仕事では、その経験を活かし後進の育成に携わっておりますが、家族と似たような甘ったれ社員をもれなく罵倒しています。立場上、私はド正論を言っているので何の後ろめたさも罪悪感もありません。嫌われることも怖くありません。つるむのは元々嫌いです。
遠距離の年下の彼がいましたが、同じような甘ったれ感を電話越しに感じ取ってしまい、ハッキリ別れ話をしていないものの、私はもう関われないと感じ連絡を断ちました。事実上の破局です。
そんな行動を取るようになった根源である母が、最近病気になりました。優しい言葉をかけることができません。会いたくもありません。でも死んでほしいわけではありません。

気持ちの上では大好きでも、自分が依存される側になった瞬間に、たくさんの人を切り捨ててきました。私の周りには誰もいない気がします。でも実際は、けっこう好かれているので不思議です。
回避依存の特徴がぴったり当てはまります。昔よりだいぶマシになりましたが、少しでも依存の匂いを嗅ぎ取ると、生活に支障が出ます。私も助けてほしいことがたくさんあります。寂しいです。程よい距離感を作れる相手には、もう出会えないと諦めた方がいいでしょうか。
冷たすぎるんだろうなと自覚はありますが、相手も相手で幼すぎると思うので、罪悪感はそんなにないのが本音です。
でも寂しいです。
(Yさん)

「寂しい」って2回も続けて出てくるってことはかなり寂しいんだろうなあ、とお察しいたします。
自分の周りに誰もいないってのはやはり寂しいですし、孤独なものですよね。
それを正当化することは簡単なのですが、感情ってのはなかなか思い通りにはコントロールできないものですね。

ちなみにそういう状態を「心のドーナツ化現象」などと個人的には呼んでおります。
少し離れたところに人はいるけれど、身近なところには誰もいない。信頼できる人、頼れる人が誰もいない。という現象を表しています。

親密感への怖れが「心のドーナツ化現象」を作り出す。

さて、子どもの頃から大人にならざるを得ないということは、Yさん自身の依存を相当断ち切らなきゃいけないわけで、例によって自武女あるあるのハードモードで育って来られたのだろうと思います。

そういう方はビジネスではけっこう成功しやすい傾向にありますから、バリキャリとしての歴史を積むにはもってこいなのですが、その一方で、人間関係はなかなかシビアな現実に立たされることが多いものです。

つまりは仕事で成功して生活には全く困らないけれど、でも、寂しいんだよね・・・というやつですね。

たぶんYさんはほんとうはとても甘えん坊なのでしょう。
けれど、それが許される環境出なかった場合、甘えたい気持ちを我慢しますね。
でも、我慢したところでその気持ちはなくなるものではないので、子どもたちはそこで一考し、「甘えることは悪いことだ」「甘えたいなんてキモい」「甘えるなんて大嫌いだ」という思考を作り出すものです。

欲しいものを買ってもらえなかったときに「いらない!」って思うのと同じですね。

そうして、自分の内側にある甘えたい気持ち、すなわち、依存心を嫌い、悪者にすることで自分を保とうとされるのです。

そうすると自然現象としてそれは他人に投影されることになります。

その結果、依存的な人、甘えん坊な人たちを嫌悪し、遠ざけるようになります。

自分が自分の依存心を切ってきたように、依存的な人を切ります。
自分が自分の依存心を嫌悪してきたように、依存の匂いを嫌悪します。
自分が自分の依存心を悪者にしてきたように、他人の依存を悪く思います。

>家族と似たような甘ったれ社員をもれなく罵倒しています。

ということは、依存的な自分を散々罵倒してきた過去があることを示していますね。

それくらいYさんは依存したかったし、甘えたかったのでしょう。

これが隠れた本音ですね。

でも、不思議なことに感情ってのは抑圧されて見えなくなる(感じなくなる)ことはあっても、その存在を消すことはできないものですから、依存を抑圧すればするほど周りに依存的な人がうじゃうじゃ湧いてくるという現象が生じるものです。

それは潜在意識がYさんに「これがあなたが抑圧している部分ですよ」と教えてくれているわけでして、Yさん自身が自らの依存心を受け入れるまでは続いてしまうものです。

つまり、Yさんが指導にあたる社員も、かつての年下の彼も、大好きだった人達も、他ならぬ自分自身を表しているのです。

また、投影の法則により、周りの人が幼すぎると感じるのも、Yさん自身が幼すぎると感じられているからですよね。

まあ、無理もありません。

子どもの頃に子どもができなかったわけですから、今も心の中には子どものYちゃんがいるわけですから。

そうして、自分が認めることのできない自分が外側の世界に投影されているのです。

だから、それを切っている以上は孤独になるだけでなく、より依存的な人たちとの出会いが続くことになるのです。

依存って自立系な方々にとってはネガティブなものですけれど、誰もが持つものですし、逆に、それがなければ孤立するほかないものです。

自立というのは「誰にも頼らずひとりで生きていく」というものですから、孤独になることを目指す生き方です。

それは依存時代に傷ついた分、強く願うものですから、Yさんも相当傷ついて来られたことを表しています。

よくロックマン氏について解説をしておりますけれど、ロックマンってのは「自立の自立」な方々を指しまして、幼少期に傷つき、大人になってからも傷ついたゆえに、めちゃくちゃ自立してきた人たちです。

だから、その内側には自立と同じくらいの依存を抱えており、「ロックマンは5歳児」という標語が誕生するわけですね。

そして、「ガラスのハート」と呼ぶように、実は自立の自立の方々ってのは繊細な心を持っていて傷つきやすいのです。

だから自立系武闘派女子のみなさまが彼らを陥落させると一気に5歳児が表出し、甘えん坊で、依存的な「犬」になることはこのブログを読み漁っている皆様はよくご存知かと思います。

そんなYさんにとって

>そんな行動を取るようになった根源である母が、最近病気になりました。優しい言葉をかけることができません。会いたくもありません。でも死んでほしいわけではありません。

というできごとはなかなかインパクトのある大きなできごとなんじゃないかと思います。
自分が思う以上にショックを受けていらっしゃるでしょうし、葛藤が渦巻いていらっしゃるのでは?とお察しいたします。

過干渉な母だったわけですが、無職の父を抱えてということは、そのお母さんもだいぶ自立系な女性ではなかったでしょうか?

ということは、同じ自立同士、どこかYさん自身と重なるところも多いのでしょうか?

母に対する素直な気持ちをお聞きするのは今はまだ無理だと思うのですけれど、なぜ、「優しい言葉をかけることができない」と思うのでしょうか?

こういうときは優しい言葉をかけるべきだ、と思っているからでしょうか?

また、会いたくないけれど死んでほしくもない、という思いはどこから出てくるものでしょうか?

例えば、「お母さん、死なないで!」と声に出して何度か言ってみてください。

Yさんの心、もしくは、体はどんな反応を示すでしょうか?

感情は動きますか?

今のYさんは文面から察するに、その母への怒りが相当強いようですから、母をいたわるような言葉が出てこないのも無理はないと思います。

そして、その怒りを原動力に今まで頑張って来られたようですから、その怒りを手放すことも恐怖になるだろうと思います。

ただ、死んでほしくない、と思うってことは命に係わる病気をされてるということですよね?

せっかくですから生きている間に母に伝えたい気持ちを、まずはノートなどに書き出してみてはいかがでしょうか?

もちろん、ねぎらいの言葉などは要りません。

恨み辛みもあるでしょうし、「お前のせいで!」という思いもあるでしょう。

でも、他にもいろんな感情が出てくるかもしれません。

きっと寂しいのは子ども時代からですよね?
子ども時代からずっと寂しさをかみしめて生きて来られたと思うのです。

だとしたらほんとうは母にどうしてほしかったのでしょうか?
母に何を求めていたのでしょうか?

もし、内なる5歳児のYさんが寂しがっているとしたら、彼女は母の何を求めているのでしょうか?

>程よい距離感を作れる相手には、もう出会えないと諦めた方がいいでしょうか。

この「程よい距離感」というのがどういう距離感なのかイメージができるでしょうか?

よく女流作家が描かれる理想の男子像として「清潔感があって決してでしゃばらず、必要なときにさっと現れ、役割が終わったらすーっと引いてくれ、話をしたければじっくりと最後まで聞いてくれ、爽やかな笑顔と共に励ましてくれるような男性」が描かれています。

また、うちの自立系武闘派女子クライアントさまからも、そんな男子が理想!そういう男を彼氏にしたい!という声を頂いておりますが、私が思うにそういう男性というのは恋人とか友達というよりも「執事」ではないかと思い、こちらのサイトをご案内することにしています。
>>>全日本執事協会

つまり、こうした「程よい距離感」というのは多く、個人的な都合に合わせてくれる相手ということになる可能性が強いものでして、恋愛にしても友達作りにしても「結果的にそうなることはあるけど、最初っから分かってるモノじゃねえよ。お互いに協力してそういう距離感を創ってくんだよ」という話をして自武女クライアント様方をがっかりさせているところです。

とはいえ、この「程よい距離感」というのは実は心理学的に解説すれば非常にシンプルなものです。

「他人との距離感は自分の心との距離感を表している」

ここにも「投影の法則」が働いているのですが、自分の心(感情)とうまく付き合えている人は人間関係も心地よく構築できるものです。

おそらくみなさんも自分の気分が良い場所でであった人たちとは良い関係が築けていると思いますし、自分の心の扱いに苦労されている方は人間関係にも苦労が多いものと思われます。
まあ、そんな一概に言い切れるものじゃないですけど。

だからやっぱり自分の心とのつながりを取り戻すことが、人とのつながりを感じる秘訣ですし、人とほど良い距離感を創るには自分自身の心と上手に付き合っていくことがその秘訣になると思っております。

だからカウンセリングなどを利用されて自分の心を知り、受け入れ、自分の気持ちを素直に受け入れられるようになった分だけ、人間関係が楽になり、生きやすい人生になった、という話はそこかしこに転がっているのです。

そういうわけでYさんにとってはその寂しさを何とかし、また、ほど良い距離感の人間関係を築くことを目指されるのであれば、一旦、自分の心と向き合っていくことをお勧めしたいところなのですが、それはすなわちずーっと我慢してきた自らの依存心を目にすることとイコールになりますからなかなか難しい選択になるかもしれません。

ここでその選択を回避して今まで通り生きていくことも可能ではありますし、Yさんのみならず意外とたくさんの人たちがそうして生きています。

すなわち、今の状況や自らの行動、具体的には、病気の母に対してどのような行動をとるか?その寂しさをどう受け止めるか?などについても、正当化と言いますか、きちんと理論づけて自分を納得させることも可能でしょう。

その寂しさをどうしたいでしょうか?
また、ほど良い人間関係をどの程度お求めなのでしょうか?
さらに、お母さんに対してどうしたいと思っているのでしょうか?

その答えによって今後どうするかを選択されるのが良いかと思います。

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