禁欲とセクシャリティについて~自分らしい表現方法とは何だろう?~



セクシャリティについては怖れもあり、よく分からないものでもあり、またタブー的な色合いもあるので、なかなか向き合いにくいものかもしれません。
が、基本は何でも同じでありのままの自分の感情と向き合い、自分らしく解放してあげればいいんじゃない?というシンプルな答えに行きつくのです。

こんにちは!
都内在住の会社員です。
セクシャリティについてちょっと分かりづらいかもしれませんが質問があります。

禁欲とセクシャリティについてです。
最近の根本さんのセクシャリティの記事とても好きです。
そして基本、自覚と解放を推奨されていると思うのですが、自覚にとどまって解放は直接的ではないというのはやはり難しいのでしょうか?

私は趣味で「歌い手」や作詞をやってるのですが「エロい」表現を目指したいかと言うとそうでもなくて…
なんというか、表面は淡々としてるけど奥にあるセクシャリティにゾクリとするほうなので、自分もそういう表現をしたいし、気質としても直接的なのはどうにも無理ぽいです。

わかりずらいかもしれまんせが、オタクらしい例えで行けば、漫画の神様の手塚治虫や引退撤回された宮崎駿さんなどとても道徳的な作品性を感じると思うのですが、
(手塚氏は成人向けのも描いてますが、そんな作品でもテーマは社会的だったり人間の普遍的葛藤だったりして高尚)
お2人ともかなりエロさの値が半端ないのは好きな人間程当たり前に感じてる事実で。

抑制というより多分隠されたエロで、そこには「充分な自覚」が前提なのだろうとは思うのですが、巨匠達のように深い見識や現代社会への問題提起が何もない私には、その第一階層(外に提示された見てとれるテーマ)がカスカスなうえに、
エロも隠そうとするとただの中身も外見も味も旨味もない出がらしのようになってしまって…まぁ、その通りの反応ばかり貰います。

そう思って分かりやすくエロやろうとした時期もあったのですが、なんか辛くなって続かなかったし、禁欲的なとこがいいと尊敬してる人に反応貰ったこともあるで、もう何年も「セクシャリティと禁欲」の間で揺れながら表現模索しています。

表現の話とすると限定されてしまいそうですが、例えば服装でも露出や身体のラインが出るものに惹かれないけど、魅力(魅力てつまるところ性的魅力だと思います)は出したいという方もいると思うのです。
また「モテ」とかでも言えるかなと。別に誘うような格好しなくても誘えないかなと…
机上の空論感な虚しさ感じつつリクエストです。
(Rさん)

なるほどー。このところ哲学的テーマのようなリクエストをよく頂いておりますが(個人的に好きなのでうれしい)、「セクシャリティと禁欲」ってナントカ派の哲学者が岩波新書あたりに出してそうなテーマですね。(個人的に岩波新書好きです笑)

さて、まず理解しとかなきゃいけないのは「セクシャリティ」と「エロ」は必ずしも一致しない、という概念でして、ましてや「エロ」に関してはその人それぞれの趣向によってツボが変わる一般化しづらいものです。

例えば、手塚治虫さんや宮崎駿さんの作品にエロさを感じる人もいるでしょうし、京都の枯山水の庭を「エロい」と表現する人もいるでしょうし、胸元が大きく開いたドレスにエロさを感じる人もいるでしょうし、ビシッと決めたスーツ姿の男子にエロさを感じる人もいるでしょうし、まあ、それを感じるツボってのは人それぞれです。

感じ方が人それぞれならば、その表現方法も人それぞれで、ストレートな表現を好むアーティストもいれば、隠語を駆使して表面上は道徳的な作品に仕上げることに快楽を覚える作家もいるでしょう。

夜の街を闊歩するお姉さま方のエロさに憧れる人もいれば、一見質素な着物姿にエロさを感じ、そこを目指す人もいていいですし、ジャージ姿からエロさを醸し出そうとする試みも素晴らしいと思います。

何が正しくて、何が間違っているか、というのは存在し得なくて、何が自分の感性に合っているのか?自分はどういう風に表現したいのか?ということになるんじゃないでしょうか。

そもそもセクシャリティにしてもエロさや色気にしても、うぉりゃー!!!と気合を入れたら出るものではなく、その人の持つ雰囲気を人はそう表現するのであって、セクシーな人はTシャツ&デニム&ノーメイクでもセクシーです。

>そして基本、自覚と解放を推奨されていると思うのですが、自覚にとどまって解放は直接的ではないというのはやはり難しいのでしょうか?

たしかに、ごもっともな疑問かと思うのですが、この「解放」っていうのは外見的と言うよりもむしろ内面的な解放を意味するんですね。

その内面的な解放を促すために、セクシーな服を着たり、露出多めなファッションを選択したり、少々派手なメイクを心がけたりすることはあっても、その形だけを意識しても案外内側のセクシャリティは解放されないものです。

そして、先ほどの話と被りますが、エロさを感じるツボが人それぞれな分、その解放に至っても「自分の好み・趣向」を優先するほうがいいのですね。

例えば、私のクライアントさんには水商売系の方も少なくなく、ふだんからいわゆるセクシー系の服を愛用されているのですが、好きでそうした服を着ている人もいれば、「ユニフォーム感覚」で身に着けられてる方もいます。

後者の方の場合「仕事だから~」という理由で胸や脚が出る服を着てらっしゃるのですが、実はそれ「男性性」を使ってるので、必ずしもセクシャリティが解放されるわけではないのです。(実際、「露出多めだけど中身は男だし」という会話を良くします。)(ちなみに同様の会話は白衣の天使とか呼ばれてる職業の方や美容をお仕事にされてる方にもよく見受けられます。)

つまりは、形から入るのは危険でっせ、という話ですね。
言い換えれば、やっぱり内面でっせ、という話でもあります。

>抑制というより多分隠されたエロで、そこには「充分な自覚」が前提なのだろうとは思うのですが、巨匠達のように深い見識や現代社会への問題提起が何もない私には、その第一階層(外に提示された見てとれるテーマ)がカスカスなうえに、
>エロも隠そうとするとただの中身も外見も味も旨味もない出がらしのようになってしまって…まぁ、その通りの反応ばかり貰います。

たぶん、それはRさんのツボがそこにあるってことを示してるのだと思うのですね。
「隠されたエロ」というところに魅力を感じるタイプ(はあと)ということだと。
だから、それはそれでいいと思うんですよね。

でも、そこでなぜか巨匠たちが登場するのですが、なぜ彼らと競争しちゃうんでしょう?
彼らのように深い見識や問題提起がないとダメだとなぜ思ってしまうんでしょうね?

この辺の仕組みがRさんの葛藤の元なのかなあ、と。

そこに自己否定があれば、外見をエロく見せようと演出してもやっぱり空振りしちゃいますよね。

それはRさんの中身がスカスカだからではなく、理想主義による自己否定が強烈に渦巻いているからではないでしょうか。

つまり、めっちゃエロには興味があって、当然セクシャリティもめちゃくちゃ強いんだけど、競争心や理想主義や自己否定という概念がそれを封じ込めてて、そこに葛藤が生まれてる、という感じがします。

その封じ込めをRさんは「禁欲」と捉えていらっしゃるのかもしれません。

そういう風にあれこれを思索するのが好きなのだろうと思いますが、そういうときにこそ重要なのが「私は」という自分軸のあり方だと思うんですね。

私は何を感じてる?
私は何を思っている?
私は何が好き?
私はどうしたい?
私はどう考える?

という「私は」という軸があって、初めて思索の幅が広がるわけで、そこでは自己否定が前提になってしまうとなかなか苦しいものがありますね。
まさに目的なき「禁欲主義者」になってしまいそうな傾向もあります。

ちなみにちょくちょくRさんの文章からは他者評価が顔を出し、それを判断材料にされてる様子もうかがえるので、やっぱりそこは「自分軸」が大事なんじゃないでしょうか。

だから、こういう話を伺うときって「じゃあ、Rさんの場合はどうなの?」という問いかけを頻繁にすることになると思います。

エロは好きなの?
自分のこと、ほんまはエロいと思ってる?
セクシャリティをもっと解放したい?
どんな服を着てみたいの?
どういう女に憧れるの?
どんな女になりたいの?

考え、ではなく、思い、感情、感覚をお聞きしたいですね。

そこはシンプルになったほうがいいです。
じゃないと、思考が素直な感情を邪魔しちゃいますから。

>なんというか、表面は淡々としてるけど奥にあるセクシャリティにゾクリとするほうなので、自分もそういう表現をしたいし、気質としても直接的なのはどうにも無理ぽいです。

ということなので、そういう表現が自分らしいのであれば、そうした歌い方や作詞ができるようになればいいんですよね?

そこで大事なことって、やっぱり自分の内面にあるセクシャリティやエロさと向き合うことだと思うのです。

Rさんの言う「自覚」の部分かな。

そこをもっと意識的に見つめてみてはどうでしょうか。

その方が自分らしい表現ができると思うんですよねー。

さて、ここからはちょっと別の切り口から。

禁欲とセクシャリティについて。

何らかの思考・概念・観念によって自分の同意なく闇雲に禁欲に走ることは、欲求を抑圧することになるので、やがて何らかのきっかけによって爆発することになります。

分かりやすいのが「ダイエットしたいから食べないようにする」という禁欲で、ここで無理に食欲を抑えれば後々どうなるかは皆さんもよくご存知のことと思います。

だから、闇雲に欲求を禁止して抑圧することは非常に危険なことと言えます。

ただ、その欲求を禁止する目的なり、意味・意義なりを“感情的に”理解した上で実践することはまた少し意味が違うかもしれません。

それは闇雲に欲求を抑えるのではなく、その欲求と向き合いながら常に「食べない」ということを選択していくことになります。
だから、常に自分との対話が存在し、自分の感情の納得を得たうえで選択していくので、さほどリバウンドはしません。

とはいえ、欲求を抑え続けることはやはり難しいと感じたら、時には「食べる」という選択をし、自分を満足させてあげることも重要ですね。

で、その欲求と向き合うということは、その感情を感じ続けることなのですが、多くの人が欲求と向き合うことを苦手と感じるのはこの「感じ続けること」への抵抗と見ることができます。

性欲にしても、食欲にしても、それを感じ続けながら解放しないことを選択するわけですから、一見、苦しそうに思えますよね。

でも、ほんとうはその欲求から目を背け、闇雲に蓋をして我慢し続けるほうがよっぽど苦しいんです。

そうして、欲求と向き合い続ける、ということは、感情と向き合い続ける、ということですから、一言で言えば「内的充実」が非常にうまく図られることになります。

欲求と向き合うことで、欲求に振り回されることなく、欲求と対等に付き合えるようになります。

そうなったらどうなると思います?
常に自分軸で、自分らしく振舞えるようになると思いません?
それってかっこよくないっすか??笑

そうすると内側の充実感が外側にまさに「醸し出される」ようになるんです。

落ち着いた、地に足の着いた、どっしりした雰囲気はもちろん、その人らしい雰囲気や表情を表現することができますし、その人が持つセクシャリティもいかんなく解放されるようになるでしょう。

解放する、のではなく、解放される、のです。

つまり「禁欲」ということにしても「自分の感情と向き合って選択する」を繰り返すわけですから、心の中が整理され、自分らしさを発揮しやすい状態になるんです。

それが「魅力」ということになるのではないでしょうか?

なので、自分の素直な思い(欲求に限らずあらゆる感情)を受け入れ、向き合い、感じ続け、その上で行動は都度選択する、という基本原則を繰り返していけば、勝手に魅力は放たれていくものと思うのです。

ええ、これこそ、机上の空論かもしれませんけど、やってみるほどに効果的ですのでお勧めはおススメです。

ちなみに筆者はまだまだ欲に流されまくる凡人のため、悟りの道ははるかに遠いと達観している今日この頃です。

★自分に素直に生きるための処方箋&動画

『「いつも無理してるな」と思った時に読む本』(大和書房)

*セミナー動画:心のメイクを落として本来の自分らしさを取り戻すワークショップ3days


今日の話を無料アプリのvoicyで音声でラジオみたいに聴けます!
 
『(準備中)』
 


★Youtubeの公式チャンネルでも同じ内容を公開してます!(チャンネル登録よろしくお願いしますー!)
 
 (準備中)
 


★voicy/youtubeで配信した話を文字起こしして公開してます!テキストで読みたい方はこちらからどうぞ!

 『(準備中)』

★自宅で、カフェで、移動中に、どこでも学べる根本の心理学講座

メルマガと動画付きで深い内容を学べるオンラインスクール(毎週月曜配信!)
セミナー動画を配信中!!
セミナーDVD

あわせて読みたい