先ほど、テキストが出来上がりました。明日事務所のスタッフに印刷していただきます。
私、テキストを作るとき、「自分がこの講座を通じてお伝えしたいこと」をすべて書き込みます。
どうしてこのテーマにしたのか?
何を伝えたいのか?
どうしたらできるのか?
そのための実習は?
何度も見直すんです。漏れはないか?伝えたいメッセージは込められているか?
先ほど、テキストが出来上がりました。明日事務所のスタッフに印刷していただきます。
私、テキストを作るとき、「自分がこの講座を通じてお伝えしたいこと」をすべて書き込みます。
どうしてこのテーマにしたのか?
何を伝えたいのか?
どうしたらできるのか?
そのための実習は?
何度も見直すんです。漏れはないか?伝えたいメッセージは込められているか?
私がカウンセリングやセラピーの中で、とても大切にしているポリシーがあります。
それは【人生には必要なこと、ベストなことしか起こらない】ということです。
だから、どんなに最悪で、辛いできごとに遭遇したとしても、それはその方の人生にとって、新たな光に変えることができるものです。
そして【どんな問題も乗り越えられるし、また心から笑えるようになる】とも思っています。
だから、【なんとかなりますよ!】とよくお伝えしています。
そして、何より私がお伝えしたい言葉は【大丈夫ですよ】というメッセージです。
どんな状態になっても大丈夫。また元気になるし、笑えるし。だから、今、泣いても大丈夫。
欠点を欠点として受け入れるとうまく生きられる、というお話を昨日した。
引き続き今日は、そんな自分を許してあげよう、という話をする。
「そんな自分」とは、今のあなたそのものである。
何かができる自分はOKなのだが、何もできない自分はNGだと誰が決めたのだろう?
→そう私自身です。
私たちはつい完璧なものを目指してしまう。
穏やかになりたいと思えば思うほど、自分に怒りが許せなくなり、寒いのに電車がなかなか来なくてイライラしている自分はダメだと思ってしまう。
そういうときも、穏やかな気持ちで待っているべきであると決めてしまうのである。
そんな理想の自分と私たちは常に戦っている。
「こうすべきなのに、できない」
「本来はこうあるべきなのだ」
という姿に連戦連敗なのである。
男女関係のカウンセリングでの「あるある」なのだが、付き合いが長くなればなるほど、お互い、自分と相手が同じであるように誤解してしまうようである。
自分の価値観と相手の価値観が違うことくらい“頭では”重々承知なのであるが、意識していない領域では、なかなか思いが及ばないことが多い。
ゆえに、自分の価値観を相手に押し付けてしまうことも多いのである。
一言でいえば「あなたの常識、相手の非常識」なのである。
そうした例は枚挙に暇ないが、例えば、こんなものがある。
「私は悪いと思ったら素直に謝るタイプ。だから、彼はこの件で一切謝罪がない。ってことは、悪いとは思っていないんだわ」
「体の調子が悪ければふつうは病院行くなりするよね?少なくても仕事休むよね?彼、大丈夫、大丈夫って言って、全然気遣わないの。変じゃない?」
「ふつう遅刻するときは事前に一言連絡してくるよな?あいつ、全然何も言ってこないし、遅れてきても全然悪びれないんだぜ。おかしくないか?」
「何かというと、将来どうするの?私たちどうなるの?って聞いてきて、ほんとウザいんだよな。そんなのわかんねーじゃん。これからどうなるか、なんてさ。」
「うちらの仕事は無力感との戦いやねん」
うちの師匠がかつて何気なく教えてくれた言葉。
助けたくてこの仕事をしているのに、助けられない人が出てくる。そして、そこに横たわる無力感という感情。
自分は何をしているんだろう?
他の方法があったのではないか?
他の人だったら助けられたのではないか?
そんな無力感が次々と襲いかかるのがこの仕事。
だから、2、3年で辞めてしまう人も多い。
そもそも「助ける」ということに「傲慢さ」を感じることもあれば、「助ける」ことなんて可能なのか?という議論もあるが、ここではこれらの意見は横に置きたい。
ふと何気なく目にしたメルマガにこんなメッセージが書かれていました。
「今月の新月は『断ち切り』のパワーが強く出ています。」
ほほー。そうなのか、と気になって別のメルマガを開くと、
「最後のデトックスを喜びで終える時期です。」
みたいなことが書かれてました。