私達は無意識に自分を癒そうとしている


僕は乗り物に乗るときは必ず窓際の席を取るようにしている。
それが例え、雲の中を飛ぶ飛行機であったとしても窓際でないと落ち着かないような気がしてしまう。
これは幼少期、山の中の生家から幼稚園に通うときも、運送業を営む父親のトラックに乗って遠くに連れて行ってもらうときも当然のように窓際に座って窓の外を眺めていた。
(もっともその頃の僕は車酔いが激しく、窓際でないと非常時に対応できなかったせいもある。因みに真ん中の席は上の妹が確保し、ずっと歌を歌っていた記憶がある)


先日、名古屋へ出張したときも大阪からの二時間の行程をずっと窓の外ばかり眺めて過ごしていた。(最近は趣味と実益を兼ねて近鉄特急にて移動している)
カバンの中には仕事もたくさん入っているし、読みかけの小説も数冊スタンバイしている。
なかなか二時間もまとめて取れる時間なんて無いのだし、こういうときくらいは仕事すればいいのに、と思うのだが、つい窓の外を眺めて過ごしてしまう。
もちろん、頭の中は景色のことばかりではなく、あれこれと色んなことを考えている(生活のこと、仕事の進め方、今度いつ旅行に行こうか?など)。

奈良も桜井の辺りを過ぎれてば後はずっと森というか山あいを抜けていく。
そうすると普段目にすることのない緑が圧倒的に視界を占めるようになる。
でも、どことなく代わり映えのしない山の風景が続くのも確かで、だから、それが気持ちいいとか、すっきりするとか、マイナスイオンで癒される・・・とか、残念ながらそういう話ではない。

しかも、時期は梅雨の真っ最中であった。
快晴の中ならまだしも、いつ泣き出すとも分からない曇り空の下であるから、なお、景色に爽快感を求めるのは酷というものだと思う。
都会育ちのうちの奥さんはこういう田舎の風景に心奪われ、憧れすら抱くらしいのだが、田舎育ちの僕(僕が生まれた家は、ほんとうに山の中にある一軒家だった)としては、夜の暗闇の恐怖心や湿気のもたらす不快感なども思い出されるので、青々としている緑に懐かしさを覚える一方で、そうしたネガティブな思いも蘇ってきて必ずしも手放しには喜べない。

そうはいっても自然の中を走る電車からは、突如一際目を引く山や大木に出会ったり、広々とした田んぼに感動したり、それが何なのか、どこなのか、非常に気になるものに目が留まることも少なくない。

そんなときは次に通過する駅名を必死の動体視力で読み取り、後でその辺りの地図をチェックして、僕の中の「素敵な場所リスト」を増やしていく。
このリストは何かの時に僕の心に妄想を広げ、心を解放する最高の材料を提供してくれるものである。
最近は専ら沖縄シリーズが幅を利かせているのだが、こうしたリストは僕のエネルギー供給源でもあり、よって餌をかき集める動物がごとく素敵な場所を僕は常に探しているのだ。
もちろん、そのリスト項目は実際に目にした景色だけでなく、元々好きな地理の情報と一緒に記憶される。
最近はネットで地図が簡単にチェックできるので、こうした作業がとても楽にできてありがたい。

これが僕の旅の楽しみである。

前世は飛脚だったのか?と思われるくらい地図が好きで、電車のみならず、飛行機からも景色と頭の中の地図を重ね合わせながら「お、あれは松山空港だな」とか、「あれがヤマハの工場で、その先が私鉄の駅だから、この辺がうちの実家か」などと独りごちるのが大好きなのである。

例えば、車窓に突然現れた「長谷川酒店」という変わった看板が目に留まると、その店の規模とか、その建物とかが無性に気になるようになり、あとでネットで調べてみたり、その辺りの地図を眺めながら「はたして、この辺で商売をして売上げはいかほどなんだろうか?」などと余計な詮索をしてしまうことも少なくない。

子供が出来てからは、育児・教育面にも意識が広がるようになった。
例えば、近鉄電車が山間部を抜けて平地に出る頃(松阪あたりだろうか?)、とても魅力的な幼稚園(保育園?)を見つけた。
小学校と見まがうような敷地を持つそれを眺めながら(とはいえ、電車はものの数秒で過ぎ去ってしまうのだが)、頭の中では勝手に妄想が始まる。

「ここは園庭が広いし、遊具も充実しているから、こんなところで育てたら情緒豊かに、元気な田舎の子!としてのびのび育つんだろうな、でも、都会への憧れを抱くようになり、『パパがここに引っ越してこなかったら良かったのに!』とか中学生くらいの時に文句を言われるようになるんだろうなあ」などと考えたりするのだ。
(そして、子どもや家族のことを妄想しているときの僕の表情はとても怪しいものだろうと思う。)

さて、まだまだ電車は走り続ける。
梅雨の真っ最中で、雨こそ降っていなかったが、空は鈍い色をした鬱陶しい曇り空である。
気温も高く、不快指数も高い中、逆に木々はまさしく水を得て青々と茂っている。
その生命力、存在感は圧倒的なものですらある。
川は大きく水量を膨らませて意気揚々と流れている。
水際の湿原は写真で表現することも相当難しいのでは?と思うくらいの美しさを湛えている。
鬱陶しさと、生命力はきっと同居するのだろうと思わされて、胸が空く思いがした。

これが梅雨を越えて、夏に向かうようになると、大きく空に向かってその生命力が解き放たれるのである。
それを想像するだけで、夏がとても楽しみになってきて、わくわくしてくる。

そして、そうした空間にポツンポツンと家が建っている姿は、人の弱さ、健気さを象徴しているように見える。
もし、そこに自分が暮らしていたら・・・?と再び妄想が始まり、車を運転しない僕には無理だろうなあ、とか、夜の闇に耐えられないだろうなあ、とか、でも、自然が豊かでのんびり過ごせるかなあ、とか、現実には果たせない世界が勝手に浮かんでくる。
そして、それがちょっと儚く思えたりもするのである。

そんな勝手に頭の中にあふれ出してくる思考(それは考えようとして考えているものではなく、ほんとうに自然と頭に浮かぶもの達)にひたすら任せて景色を見ていると、「ああ、これはネタになるなあ」とのアイデアも同時に流れてくる。
僕は文章を書くのは、こういう状態じゃないとダメで、頑張ってネタを搾り出そうとすればするほど思考は逃げて枯れてしまい、ぜんぜん思うようにならないのだ。
勝手に「おおー、これだー」という中でしか書けないので不自由極まりない。
(よって全然プロフェッショナルじゃないと思ってしまうのだが、それもその通りなので由としている)

そして、そんなこと、こんなことをずーっとあれこれ思い耽りながら電車に揺られていると、心はふっと軽くなっており、胸の奥に溜まっていた澱のようなものがすーっと取れていることに気付かされる。
そして、自分ではまったく意識しないうちに、この自然や時間の流れで心が解放されているのである。

僕が出張生活を辞められないのは意外にもこんな理由からかもしれない、と思うくらいに癒されてしまった。

そこで、さらに思い当たることがあった。
カウンセリングをしていても、やはり同じ思いに行き着くことがあるのだ。
私達は無意識に、自分ではそれと意識しないところで、自分を癒そうとし、解放しようとしているのかもしれない。
肉体的な排泄行動が自然なのと同じように、心も「癒し系」などと特に意識しなくても勝手に溜まった毒素を吐き出そうとしていても何ら不思議はない。

それは、具体的には、ほんの一口のチョコレートだったり、仕事の後の生ビールだったり、ふっと立ち寄るドラッグストアでの買い物だったり、様々な形式を取るだろう。
でも、私達の心は溜まってしまったゴミを掃き出そうと、自然に勝手に動いているとしたら、あなたはどう感じるだろう?

好きなことに接していれば、心は休まり、癒され、リフレッシュできる。
じゃあ、今日はあなたも、自分自身がそうとは気付かずにしている癒しの数々を見つけてみはいかがだろうか。
それに気付き、受け取ってみると、少しは自分の偉大さ、素晴らしさを感じられるかもしれない。

そして、もし、何も浮かばなかったりしたら、何かがあなたの自発的癒し行動を塞き止めているものがあるのだろうと思う。
もしかしたら、心が望むリフレッシュの方法を、まるで意地悪をするように止めているのかもしれない。
さて、それが何なのか?はたまた、どうして流れを止めてしまうのか?それをテーマにしてみると、また一つ自分を知ることになるのではないだろうか。


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