流れに身を任せて自由になることを許せないのはそこに「孤独になる怖れ」を見ていたから。



ふと浮かんだ「もっと流れに身を任せたらええやん」という言葉。ずっとそうしたいと思っていたのにむしろ不自由になっていったのは「孤独」を怖れていたからでした。
そこには父の影や過去生の影響もあったようです。
「流れに身を任せて自由になるほどもっと大切な人を愛することができる」が答えでした。

さて、今日は「ふと感じる寂しさ、孤独感を癒す本」(清流出版)の発売日なので、ここは一発、武闘派読者たちの購買意欲を喚起する記事を一発書いたろう!と思ったのですが、鍼灸に行って緩んでしまった上に、帰りの高速で「おぉ!」という気づきを得たのでその話をしようと思うのです。

いつもよりも何となく車が多めな第二京阪を颯爽と(法定速度に従って)(第二京阪は覆面が多いのだ)走っておりますと、「もっと流れに身を任せたらええやん」という気づきが下りてきましてその瞬間、心のどこかの部分がふわっと緩んだんですね。

そっか、もっと流れに任せればいいのか。
もっと自由でいいのか。
もっとわがままに決めていいのか。

そういえば数年前から自分自身の「自由解放運動」を展開してきたのですが、自由になればなるほどありがたいことにお仕事の依頼を頂くようになり、さらにそれまで以上にアイデアが浮かぶようになり(その結果、お弟子さん制度をスタートさせてしまった)、結果、ますます忙しくなり、目的とは逆に何かと束縛を感じる日常を創り出してしまっていました。

なんかおかしい、と思う一方で、好きな仕事だし、やりたいことなので、精を出して向き合ってきたんですね。

だから、一時期の私は「好きなこと、やりたいことの中から、より好きなこと、やりたいことを選び出さないと大変なことになるで」というメッセージを発するようになりました。

やりたいことだらけだと逆に自分の首を締めてしまう、ということです。
それってめちゃくちゃしんどい葛藤で、例えるならば、好物ばかりが並べられたブッフェに挑むようなものであり、魅力的な服ばかりが並んだショップで限られた予算内で今シーズンの服を選ばなければいけないようなものです。

しかし「欲しいモノは欲しいんじゃー!」という思いで料理を皿に並べまくり、「これとこれとこれ、あ、これも」と大人買いしてしまった結果、満腹で動けなくなり、翌月のカードの請求書をビビりながら待つことになり、心理的な余裕を失ってしまったのがここ最近の私でした。

要するに頂いた仕事も、自分が思い浮かんだアイデアも、思考停止のような状態で受けまくった結果、1年が繁忙期と超繁忙期の2種類しかない生活がやってきてしまったんです。

そうすると仕事に関しても「〇日までにこれをしなきゃいけないから、今日のうちにこれをせなあかん」とか「○○のセミナーのためにはそろそろアレをしなきゃいけない」とか思うようになり、好きなことを自由にやっているつもりが、「好きなことを不自由にやっている」ことが当たり前になってしまいました。

私は意外と家事もこなすので洗濯や料理もマメにしたりします。
洗濯機が「終わりましたぜ!」と知らせてきたらすぐに対応しますし、夕方くらいになってくればキッチンで味噌汁の準備を始めたりします。
ときに息子君から「ラーメン作って」「リンゴむいて」等のリクエストが入るので、即座に対応することも珍しくありません。

旅先でもコインランドリーは必須で、洗濯乾燥機が部屋についていたホテルが閉館になってしまったので最近はホテル内、もしくは近所のコインランドリーに通います。

そういう生活のなかで無意識に「きちんとすること」や「ちゃんとすること」、言い換えれば「きちんとした生活リズムを作ること」をどこかで意識しすぎてしまったようです。

そういう生活も割と好きなのですが、気が付くと「やりたいこと」が「やるべきこと」になってしまって自分の首を締めることになっていたのです。

さらに都合が悪い(?)ことに、HAPPYちゃんにドハマりしているうちの奥さんや娘さんはそんな私をよそにどんどん緩く、自由になっていきました。
また、息子君は自由人というより宇宙人なのでしたいことだけする日常を10歳にして確立されておられます。

となると「バランスの法則」が働くのでしょうか。
その方向とは逆に「きちんと、ちゃんと」にとらわれるようになっていたようです。

「自由を求めてあれこれやっていたら、気が付けばますます不自由になっていた」というコントのようなオチがあったわけです。

その結果、鍼灸の先生には「深いところの疲れがなかなか取れませんねー。だいぶストレスがかかってますねー」と毎度言われ、そのたびに何とかしてもらって持ち直すことが繰り返されるようになってました。

なので何とか根本(こんぽん)から見直さなきゃいけねぇよなー、と漠然と思う日々が続いていたのですが、こういう状況だと半ば思考停止で物事を処理するようになっているので、そう思っていても改善というのはなかなかできません。

とりあえず運動は続け、家では一切酒を飲まなくなり、睡眠の質を上げることは意識していたのですが、それも意識が変わらず、形だけ変えていても効果は薄いのです。

で、そういうときにどうなるか?というと体に不具合が出るわけです。
私の場合は半年くらい前から腸の調子を崩すことが増え、数週間前に突然腰に痛みを感じるようになりました。

元々胃腸は強い方ではないのですが、腰は一度も痛めたことがないので新鮮(?)かつ驚きでもありました。

ああ、体からのメッセージだなあ、受け取らねばヤバいなあ、ということで、とりあえず何人かの治療家をあたり(その辺の情報はたくさんあるので、こういうときはこの人、というのがある)、ひどくなる前に対処してきたのですが、それも付け焼刃ですよね。

それで久々に福岡に行き、やっぱり福岡はいいなあ、としみじみしつつ、旅先では比較的時間に余裕があるので、けっこうマイペースに過ごすことができました。

※とりあえず3か月に1回くらい福岡に通える理由が欲しくなりました。お仕事募集中です!!

そうして、気分のまま過ごして大阪に戻ってきて、鍼に行った帰りにその気づきが下りてきたわけです。

で、考えてみたんですね。

「もっと流れに任せる、気分に任せる、ということをブロックしているのは何だろう?」というもの。

そういうときにtwitterは便利です。
アウトプットする意識でそのテーマを考えると非常にアイデアが浮かびやすくなるからです。(←これ、お勧めっスよ)

私の場合、流れに身を任せてもっと自由になったら・・・きっと暴走したり、大切な人を見捨てたり、ますます行き当たりばったりの人生になってしまうなあ、という怖れがあるんです。

で、さらに掘り下げるんです。

「暴走して、大切な人を見捨てて、行き当たりばったりになったらどうなると思ってるわけ?」

こういう自問自答は職業柄クセになっているのですぐに答えが浮かびます。

「大切な人を傷つける」
「孤独になる」

つまり、「大切な人を困らせて孤独になるくらいだったら不自由でいい」と思っている私がいるのです。

そして、すぐに感覚的に思い当たるものがありました。

実はうちの父がそんなタイプなんです。

父との関係というのはイヤっちゅうほどセラピーで扱ってもらってきたので、「やっぱりなあ。ここでも出てきたかー」と思うわけです。

私の父は幼少期に母親を亡くしたり、何をしていたか不明な時期があったり、うちの母と離婚することになったり、「孤独な人と言えば?」と聞かれれば即座に「父」と答えるほど息子から見れば「孤独な人」でした。

もう中学生くらいからほとんど会ってないまま亡くなっているので、父の人生を私はほとんど知らないのですが、私はまだ父親の人生を「幸せだった」とは思えていないようです。

だから「父のように孤独にはなりたくない」という怖れがあるのでしょう。

また、実はもう一つ「孤独になることへの怖れ」で思い当たるところがあります。

私、占いとかセラピーとか怪しげな治療家とかが好物なので、ほんといろんな方々に出会ってきたんですけど、かつて「あんたは過去生で暴君だった時代がある。好き放題やって周りの人を苦しめ、最後は一人ぼっちになって亡くなった時代がある」みたいなことを霊能者に言われたんですね。しかも、別々の霊能者2人に。

南イタリアで暴君やってたと言われても全然ピンと来ないんですけど、その話が妙に刺さりまして、納得してしまいました。

そうすると「好き放題やったら一人ぼっちになる怖れ」が私の中で幅を利かせているのでしょう。

さて、こうして「もっと自由になっていい」という書き出しから見事に「孤独感」の話にい繋げるあたり、「根本さんってプロだよね?」と思うか、「こいつ、やっぱり腹黒いな」と思われるかは微妙なところですけど、我ながら見事な展開を描いてる!と自画自賛しているところです。

ただ、こうした深い気づきや人生の転機を迎えさせるために、あちらの方々が私にこの本を書かせたとしたら、私、めちゃくちゃ愛されてるなあ、とも思います。

そういうプロセスの中で「もっと流れに身を任せたらええやん」という言葉が下りてきたのだとしたら、たぶん、もう準備は整ったということなのでしょう。

好き放題やっているけれど大切な人を見捨てることはしないし、暴走もしないのでしょう。
もっと自由に振舞っても誰かを傷つけることはしないし、困らせることもしないのでしょう。

むしろ、もっと流れに身を任せて生きることがもっと誰かを愛し、幸せにすることなのだろうと思うに至りました。

本の中でも「孤独感や寂しさの向こう側には愛があるよ」という記述をしているのですが、孤独感がゴールなわけなく、そこは単なる通過点なのですよね。

だから、孤独を怖れてその手前で立ち止まってしまったら、その向こう側の世界には到底たどり着けないわけです。

なので、「もっと愛するために、もっと幸せにするために、流れに身を任せる、自由になる」ということにすれば良いのですね。

言い換えれば「流れに身を任せて自由になるほどもっと大切な人を愛することができる」でしょうか。

こっちの方がしっくりくるかな。

・・・ちなみにこういうことを「ビリーフを書き換える」と言うんでしょうか?

ということで、あまり参考にならなかったかもしれませんが、私自身の気づきについてシェアさせていただきました。

今日の講演会ではこんな話もすると思います。(講演会はそのうち動画販売されるので、参加できない方はそちらをお楽しみに)

ということで、私にとって核心的なテーマを扱った、本日発売の本はコレ。

「ふと感じる寂しさ、孤独感を癒す本」(清流出版)


今日の話を無料アプリのvoicyで音声でラジオみたいに聴けます!
 
 『自由になることを許せなかったのは孤独になる恐れがあったから
 


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