私の行動は「善意」なのか?「独善」なのか?



相手のためを思ってした行動なら善意ですが、それを相手がどう受け止めるかは知ったこっちゃない世界の話です。
だから、相手の反応を気にするよりも、自分が相手を信頼することが大事なんだよね、というお話です。

いつもメルマガ読まさせて頂いております。
ありがとうございます。

私は今、善意と独善について悩んでいます。
自分が相手の為と思って行ったことが独善の押し付けでは無いか?と、不安になります。
本当に相手のためになっているのか?
これはお節介、過干渉?になっているのではないのか?……不安になってだんだん喋れない、あるいは行動に移せなくなってきました…。
しかし不安になることそのものはストレスなので、なんとか腑に落ちる手がかりはないか……そうだ、根本さんに伺ったらもしや光明が見えるのでは……と思い、メールを送らさせて頂きました。
独善と純粋な善意との違いを感じるには、どういう姿勢でいたら良いでしょうか?
(Yさん)

よく善意が悪意として受け取られるってことが発生するのが人間社会でございまして、良かれと思ったことが相手にとっては不快なことってよくあるでしょう。

この時点ではあなたにとっての善意は「独善」と捉えられるもんです。

ところが、その人がしばらく経ってあれこれ考えたり、いろんな体験をしたりしたのち、「やっぱりあなたが言ってくれたことは私のためになることだった。ありがとう。あんな失礼な態度取ってごめんね」と言ってくれることもよくあるものです。

とすると、あなたがしたことは独善ではなくなって「善意」となります。

じゃあ、あなたがしたことは「善意」なのでしょうか?「独善」なのでしょうか?

善意だの独善なのってのは自分で決められることではなく、相手の心理状態、環境、タイミング、思考パターン、生育、価値観、あなたへの信頼等、様々な要素が絡むもんでして、そんなこと、わかるわけねーじゃん!というのが私なりの結論です。

だから、良かれと思ってやるんだったらいいんじゃない?という話をするんです。

相手のためを思ってしてあげること、は「与えること」になります。
ただ、この場合、相手の反応は関係ありません。

「その人が喜ぶことをしてあげて、そのことで自分が嬉しいこと」という風に私は「与える」を定義しています。

そこで「相手が喜んでくれるならば・・・」とか「相手のためになるのなら・・・」という前提条件を付けないのがポイントです。

ちなみに、この前提条件を付けた時点で「他人軸」となってしまいますね。

もう少し、厳密にいうと、

「喜んでもらいたいからホントは望まないけれどする」は他人軸です。
「喜んでもらいたいからしてあげる」は自分軸です。

微妙だけど、大きな違いがあります。

そして、それをどう受け止めるかどうかは「相手に委ねる」もんです。

つまり、相手の反応はコントロールできないわけで、自分ではどうしようもないものなんです。

だから、自分が良かれと思ってしたことが、相手に悪意として受け止められたり、余計なお世話だの、お節介だの、迷惑だのと言われても、全然OKなんです。

「そっかー、ごめんねー。私は良かれと思ってしたのよー。悪気はないのよー」と飄々としておけばいいんです。

あるいは「うーん、タイミングかやり方か、相手の腹の虫の居所が悪かったんだなあ。今度はうまくやるぞー!!」と前向きに捉えられる人は自己肯定感が超高い人です。

でも、そこで「あなたのためにしてあげたのよー!!!!」と主張してしまうのは、これは善意の押し売りで、独善と言えるでしょう。
相手を支配したい(コントロールしたい)欲求に溢れているわけですから。

とはいえ、そんなことを当たり前にやっちゃうのが人間関係ですわね。
誰でも完璧じゃありません。
それに気付いたときに、手放していけば良いです。
「自分は自分、相手は相手」と線を引くイメージで。

Yさんのようにいい人は、ちゃんと自分の思いを相手に自分の意図通りに受け取ってもらいたいと思います。
誤解されるのは嫌だし、ちゃんと私の愛が伝わりますように、と思います。

優しい人なんです。だからこそ、こんな風にいっぱい考えちゃうんです。

>自分が相手の為と思って行ったことが独善の押し付けでは無いか?と、不安になります。
>本当に相手のためになっているのか?
>これはお節介、過干渉?になっているのではないのか?……不安になってだんだん喋れない、あるいは行動に移せなくなってきました…。

それはYさんがいい人だからそういう風に思うんです。
ネガティブな要素が入っていない「いい人」ですよー。
ここは喜ぶところですよー。

優しいからそう思うんですが、でも、優しすぎるので、考えすぎてしまうのです。

→独善なのか善意なのかは相手が判断するものであって自分にはその権利はない。
→相手のためになるかどうかなんて、誰にも分からない。
→お節介や過干渉になっちまってるかもしれないけれど、そうじゃないかもしれないし、私にはわからない。

ということで、結論としては、

「自分がしてあげたい、言ってあげたいと思って、相手のためにしてあげるんだったら、それでよいんだ」

ということです。

だから、善意と独善の見分け方としては、自分の心に聞くのが一番です。

「これは愛からする行動なのだろうか?それとも怖れや罪悪感からしようとする行動なのだろうか?」

もし、愛からの行動だと思えるんなら何でもいいです。
それをどう受け止めるかは相手の判断です。

怒ることも、放っておくことも、過干渉になることも、お節介になることも、何でもいいんです。

愛し方は千差万別だし、完璧な愛し方というのもまた存在しません。

自分なりに愛だと思って行動するのであれば、何でも良いのです。

私のお仕事にはこういったお話がうじゃうじゃと出てきます。
クライアントさんから「あんなひどいこと言われて傷ついた!でも、あとでよく考えてみたらその通りだった!怒ってごめんなさい!今年のお歳暮は奮発します!」というメールを頂くこともあります。
(※最後の一言は個人的希望によるものでフィクションです)

私は長らく「提案型」というカウンセリングをしていますので、時には耳に痛い話もしています。
嫌われたくないなら言わなくていい一言もありますし、平穏に終わるならばただ共感していればいいカウンセリングもあります。
けれど、私の個人的な独断と偏見とわがままとその場の気分によって、敢えて苦言を呈することもあります。

「今からめっちゃ耳の痛い話をするんだけどいい?僕のことサイテーな奴だと思うかもしれないんだけど。だから、あんまり言いたくないんだけど・・・いい?」

「え?あ、は、はい。覚悟しました。」

「うーん・・・あんまり言いたくないんだけど、○○さんは愛に溢れた人なんですよね。だから、彼にそこまでされても嫌いになれないというか、自分で背負い込んでしまうんですよ。
それくらい情熱的な女性で、かつ、いい女なの。
あなたを愛したいと思う男性はたくさんいるはずなのに、愛が強い人だから、どうしても傷ついた人に愛を与えたいと思ってしまうんだよね。
知らないでしょ?そんなに自分が愛情深い女だってこと。それが受け入れられると少し楽になるんだけどね。逆に、それを知らないからそこまで無茶しちゃうんだと思うんですよね。」

「私はそんな人じゃないし、そんな風には思えません!!」

問題を突きつけるよりも、愛を語る方が抵抗がある人が多いんですよ。
問題点を指摘されるよりも、才能や魅力を受け取る方が嫌がる方が多いんですよ。

なので、口ごもってしまうんですよね。
とはいえ、愛や価値や魅力を伝えているので、その場の雰囲気は穏やかです。
さすがの自立系武闘派女子の皆さんも抵抗しながらも、嫌な気分はしないはずです。
Yさんもそうだと思いますけれど、彼女たちはおしなべて受け取り下手なんですから。

受け取り下手な人はその場では抵抗します。
「善意」のつもりが「悪意」になっちゃったと思うこともあります。
でも、その後、一人になったときにあれこれ考えます。
その時、Yさんが「愛」から行動していたのであれば、その「愛」を受け取ってもらえます。
「善意」が「善意」になっているときです。

だから、相手を信頼しましょう。
独善か善意かは相手が決めること。
でも、相手もバカじゃないし、ちゃんと自分の頭で考えられる人。
だから、自分が愛だと思って伝えたことは、いつかはちゃんとわかってもらえるだろう・・・。

だから、結論から言えば「相手を信頼しましょうね」ということになるんですな。このお話は。


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