犠牲の記事と、痛みを越えて近づく記事が矛盾してるように思えるのですが?



根本さん

お久しぶりです!

いきなり質問しちゃうくらい、こちらの記事が先日の「痛みを超えて近づく」の記事と矛盾してるように感じて、絶賛混乱中です!

痛みを超えて近づくっていうのは、ある意味、痛みという犠牲を超えて、相手に愛を与えようよという話だったと思うのですが、、、

結局どっちなのー?!と混乱している白黒思考傾向の強い武闘派女子は他にもいるのでは、、、と思い、質問してみました!

解説お願いします╰(*´︶`*)╯

(Eさん)

ああ言えばこう言う根本です。おはようございます。今日も大阪は快晴です!気持ちがいい朝です!この後ランニングしてきます!笑

ま、この辺、難しいですね。

でも、実はこれらの記事は同じことを別角度から表現しているものなのです。
「親密感ってどうやって作るのか?~痛みを越えて与える、とは?~」の記事は、愛について書いています。愛があるから乗り越えられるんです!というお話。

一方、昨日の「犠牲とは?そして、犠牲と我慢を辞める合言葉とは!?」の記事は、怖れ、不安、罪悪感などのお話です。怖れを元に行動しても意味はないよ、というお話。

共通してるのがどちらもステマ記事だということです(笑)

痛みを越えて近づく(与える)というのは「愛」です。
それに対して「犠牲」というのは愛ではありません。怖れなどをベースにしているからです。

犠牲と与えるってやってることは同じだけど、怖れベースか、愛ベースかという大きな違いがあります。

だから、痛みを越えて近づくときは、それ自体に充実感、達成感、喜びが伴います。
けれど、それがもし、犠牲だったとしたら、単に痛みを我慢して頑張る、ということになるので、喜びはありません。

とはいえ、実践で100%愛、100%犠牲なんてことはないので、ここが混乱するところではないでしょうか。

例えば、「今日、嫌だけど会社に行く!」という皆さんは今時間頃たくさんいらっしゃると思いますが、仕事や会社や同僚や取引先の人たちを愛する気持ち、大切に思う気持ちもあろうかと思います。
そうすると犠牲が70%、愛が30%みたいな比率になってます。

それで会社で嫌なことがあれば明日には犠牲が90%、愛が10%となり、
後輩の女子からニコニコしながら「かっこいいですよね」なんて言われた日には、即犠牲が20%、愛が80%になったりします。

愛がそんなに変動するのか?というツッコミはさておきまして、愛と犠牲はそうやってミックスされてるもんなんですよ。

白黒はっきりさせたい武闘派女子にはモヤっとする話かもしれませんけどな。
「わしらには、生きるか死ぬかのどちらかしかないんだ!」とか言い出して(笑)

愛か犠牲かの見分け方。

充実感や喜びや達成感や「またやりたいなあ」という思いがあるときは「愛」があるとき。
逆に、疲れたり、しんどかったり、不満が出て来たりしてるときは「犠牲」があるとき。

そんな風に見るといいですよ。


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