痛い心に「ふた」をする。



自立的な人、頑張っちゃう人、問題が起こると自分で何とかしなきゃ、と思う人・・・

失恋して辛いとき、悔しいとき、はたまた、どうしていいのか分からないとき、・・・そんな自分が嫌で、何かをまた頑張ってしまう、、、というお話をよくお伺いします。

仕事に意識を向けて頑張った・・・という方もいらっしゃいます。
そして、最近、「資格をがんばって取った」という方に立て続けにお会いしたので、今日はその話題を紹介したいと思います。


失恋した痛みから何とか抜け出そうとするために頑張ると、その痛みが大きいほど、意外なパワーを発揮します。
その辛さや寂しさ、悔しさを感じたくない分だけ、アドレナリンが分泌されるのでしょうか?

その結果、短期間で、目覚しく進歩をして、むつかしいと思われていた資格にも合格してしまったりします。

それでめでたしめでたし・・・ならばいいのですが、そうじゃないケースもよくあるんです。

「資格を取ったのはいいんですけれど、なんかやる気になれないというか。それで転職すればいいのに、でも、動けないんですよね」

自分でももったいないなあ、と思うんですけれど・・・なぜそんなことになってしまうんでしょうか。

「仕事って嘘付かないですから、頑張れば頑張っただけ結果が返ってくるんですよね。でも、それで昇給してもあんまり嬉しくないというか・・・。虚しさばかりが募るというか・・・。贅沢なんですけどね」

そういうお話も耳にします。なぜなんでしょうか?

そうなってしまう理由、大きく二つ考えられると思っています。

一つは、失恋の痛みと、勉強や仕事の頑張りがつながってしまうケース。

ある方がこんな話をしてくれました。
「その資格のことを考えると、彼のことも思い出してしまうんです」

特に女子は「できごと」と「感情」を一致して捉えますよね。
「石垣島に行った。楽しかった。」ではなく、「家族と行った、楽しかった石垣島」という風に記憶するわけです。

そうすると「資格」と「失恋の辛さ」がセットになってしまい、資格を生かそう、と思うときに、どうしてもあの辛かったけど頑張った感覚が蘇ってしまうんです。

だから、その辛さを思い出したくない分だけ、資格を生かせなくなります。

二つ目。ほんとうにそれが欲しかったのかは分からない、というケース。

失恋の痛みから逃れたくて勉強を頑張ったとしたら・・・、本音を見ていけば「ほんとうに資格を今、取りたかったのか?」ということになるんです。

その痛みや惨めさから目を逸らすための行動(これを心理学では“補償行為”と呼びます)のため、主目的は「資格を取ること」ではなく、「痛みを忘れること」なんですね。

だから、資格がほんとうに取りたかったのか?というと・・・必ずしもYesとならないわけです。

仕事もその辛さを忘れるように頑張ったわけですから、無我夢中です。
でも、痛みが薄れてきた(麻痺しただけなのですが)分だけ、その頑張る理由がなくなってしまうわけです。
その結果得たお金や名誉に対し、「こんなものが欲しかったのかなあ?」と思ってしまうわけです。

どちらのケースでも、心の痛みを感じなくて済むように「ふた」をしてしまったわけです。
感じないようにしてるわけですし、じょうずに「ふた」ができれば、感じなくもなるわけですが、決して、その悲しみや辛さ、惨めさ、悔しさはなくなったわけではありません。
そのままずーっと保存されていきます。

そして、その辛さを思い出す行動をひたすら避けて通るようになったりします。
もうあんな思いはしたくないですし、プライドが許さないからです。

だから、だんだん生きづらくなります。

カウンセリングやセラピーでは、その「ふた」を開けましょう・・・という提案をします。
一人でやるのは勇気もいるし、むつかしいから、その「ふた」をあけて、一緒に中身を整理しましょう・・・と。

その体験に向き合ったり、手放したり、許したり、感謝したり、様々なアプローチで心をお掃除していきます。
すなわち、心のダスキンサービスみたいなことをするわけです。

それは心の重荷を取ることでもあり、また、自分の可能性を広げる行為でもあるんですね。

そうすると、せっかく取った資格も「生かす」ということを考えられるようになります。
あるいは、さらに次のステップを目指そう(例えば、次は簿記の1級を目指そう、というふうに)という気持ちになったりします。

当てはまるなあ、という方。
心の「ふた」を開けて楽になれたとしたら、どんな自由が待っているか、想像してみると面白いかも、ですね。

お役に立てば幸いです。


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