“遠慮の塊”~この問題を癒したら幸せになってしまうやん!?~



カウンセリングをしていたり、私自身のことを振り返ったり、身近な人たちを眺めていて、ふと気づくことがあります。

「どうして、このジャンルだけを残してるんだろう?」と。

まるで、お皿に残った最後の1個の唐揚げのように。

ある人は、家族や友人関係もOK。仕事はばりばり最前線でワクワクしながら毎日をこなしています。
しかし、恋愛だけがどうにもこうにもうまく行かぬ・・・と言います。


また、ある人は、仕事も恋愛もOK。友人もたくさん。しかし、体が弱くてすぐに寝込んでしまいます。
体質だと思う一方で、なんだか悔しさがいつも付きまといます。

別のある人は、周りにいつも人が集まってくるような人望のある人。仕事だってわくわくしながらやっています。しかし、唯一の問題が実家のお父ちゃんとの問題。どうにもこうにも許せねえ、という思いが離れませんでした。

私自身に置き換えれば「お金」の問題がずーっとありました。人間関係も仕事も順調なのに、収入だっていい方なのに、お金が足りない、と常に思っていたんです。
収入以上に使ってしまったり、いつも不安の種にしてきました。

まるで問題業界の“遠慮の塊”です(この言葉、関西弁という説があるのですが、本当でしょうか?)。

でも、なぜかな?と心の中を深く掘っていくと、私たちの中のある傾向に気付かされます。

1.その問題があるから、人と繋がれる。

2.その問題を癒したら、完璧な存在になってしまう。

3.その問題がなくなったら、ただただ幸せになってしまう。

どれも誤った“観念”です。

しかし、心の奥深くまで根を張ってしまっているケースも少なくありません。

1について。
私たちは痛みで繋がろうとする傾向があります。
人との会話をするときに「悪口」の方が話しやすい、話題になりやすいですよね?
いいことや長所は嫉妬を招くのであまり言えません。
自分を落として笑いを取ったり、ネガティブなところで繋がって仲良くなったり、私たちはよくそういうつながりを作ってきました。
問題があるからこそ、人と繋がれる感覚が生まれます。
だから、問題がなくなったら、人と分離して孤独になってしまう、そして、ただただ嫉妬や攻撃の対象になってしまう、という怖れがあります。

しかし、もちろん現実はそうではありません。
問題がなくても、あなたは人と繋がれます。より深く人を愛せるようになるだけです。

2について。
完璧主義な私たちは完璧でないことで自分を責めています。
もし、問題がなくなって完璧な存在になったとしたら自分を責めることができなくなります。
その習慣を手放すことへの怖れが一つあります。
また、完璧な存在になったら1と同様、人が離れて行く怖れを感じます。
完璧な人は隙がなくて近づけない、と思っているからです。

しかし、本当はそうではありません。
完璧な存在になることはありません。むしろ、完璧さを追うから孤独になります。
完璧でない自分を許すことが今生でのテーマです。

3について。
天国は何の問題もない、何の心配もなく、争いもない場所だそうです。
とても平和で満たされている世界。幸せな世界。
しかし、問題が一つあるそうです。それは“退屈”であるということ。
だから、私たちは不自由な“肉体”をまとい、しがらみだらけの人間界に生まれることを選びました。

幸せになって何ら問題がなくなってしまうと、天国にいた頃に感じた退屈さを魂は思い出します。
その時代がすごく退屈で嫌だったから生まれてきたのに、またあの退屈さを味あわなければならなにの?と感じるのです。
問題がある、ということが人間であることの証明であり、かつ、退屈しのぎなのです。

もちろん、これは誤解です。
生きている以上、この不自由な肉体と付き合わなければならないし、人間関係のしがらみもちょくちょく現れます。
その問題を解決してしまっても、全然大丈夫。
あなたの周りにはまた新たな問題が退屈しのぎにやってきます。

長年携わってもなかなか解決しない問題があるとき、こんな考え方をしてみることをお勧めします。
それは、『その問題があること自体が必要なのではないか?』ということ。

それによって長年の問題が氷解することもあるでしょう。

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