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人に喜んでもらいたい、役に立ちたい、認められたい。そんな思いの背景には、亡き母を助けられなかった無力感や罪悪感が隠れているのかもしれません。しかし、その思いは母を深く愛していた証しであり、誰かを助ける才能の源でもあります。罪悪感を手放し、「私も助けてもらっていい」と許すことで、承認欲求に振り回されず、自分の才能を生かす方向性が見えてくるのです。
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いつもありがとうございます。
先日、カウンセリングで目の前にあるものを認める事というお話をしていただきました。
今まではネガティヴな感情を、ポジティブな方向からに置き換えないと、と思ってなきものにしていたと気づき、とても腑に落ちました。
それを踏まえて整理してみると、頑張らないと、と思っても動けない自分を否定していたのですが、そもそも何の為に頑張りたいのだろう?
目標に向かってコツコツ進めない自分を否定していたのですが、それってそもそも自分に向いているのか?という疑問もあり、欲しい未来にワクワクしてないからできないのでは?と思ってきました。
今の仕事をしているのも人に喜んで欲しいし、自分も楽しいからです。
しかし、、そこまでの価値を自分が提供できているのか?と自分がこの人たちに尽くさないと期待を裏切ってしまうと不安です。
でも、あなたがいてくれてよかったと言われたい。
私は与えたいだけでなく、承認が欲しいのかも。
そして、その言葉は母に言われたかった事かもしれないと思いました。
いつも私達の面倒を見てくれて、暴れん坊の父に振り回されて、かわいそうと思っていました。
母に幸せになって欲しかったし幸せにしてあげたかったけれど、いつも疲れていた。
やっと自由になれたころに病気で亡くなって、結局何もできなかった。
それを埋めたいのかなぁと思います。
いきたい方向性がずっと定まらないのは、どっちにいきたいかが自分でもわからないからだと思っているのですが、そういった事も関係してくるのかななど。
やっぱり私にはできない、私なんてみんなに好かれない、だってどうせ私だもんみたいなパターンを変えたいです。
根本先生ならどうお考えなのかお聞きできると嬉しいです。
(Mさん)
まあ、なんと上手に心の内を言葉にされているのでしょう!と感嘆してしまいました。
感受性も豊かなら、自分を客観的に見つめる目もあり、言語化能力も豊かで、すごいですね。
「母」というのは私たちにとってものすごく偉大な存在です。
その母に認められたい、という思いを持つのは子どもとしては至極当然で、承認欲求のルーツになるものです。
だから、
>その言葉は母に言われたかった事かもしれないと思いました。
という気づきはとても大きなもので、それくらいMさんは母を愛し、慕い、助けたいという思いを持っていらっしゃったんだなあ、ということがよく分かります。
それなのにお母さんが亡くなられてしまったとなると、人生の大きな目標を失ってしまったような喪失感に襲われるのも無理はないと思います。
甲子園で優勝するぞ!という目標を掲げていたのに、甲子園大会が急になくなってしまった、みたいな感じ。それよりもはるかに大きいんですけど。
そして、その「母に認めてもらいたい」という思いが「社会に投影される」というのもまた自然な現象です。
母に認めてもらいたい、という気持ちが、みんなに認めてもらいたい、という気持ちとして出てくるのも別におかしなことではありません。
お父さんに振り回されて、子どもたちの面倒を見て、いつも疲れているお母さんをそばで見ていたなら、何とかしてあげたいと思うのも自然ならば、やはり、その思いを社会に投影して、みんなの役に立ちたい、お客様に喜んでいただきたい、という思いになるのもまた自然なこと。
だから、そうした欲求は全然悪いものではありません。
*
母、に限らないんですけどね。
父だってそうだし、きょうだいに対してもそう。
身近な人に対して「助けたい」という思いと「認めてほしい」という思いの両方を持つのが「人間」というものです。
「助けたい」とか「役に立ちたい」とか「喜ばせたい」という思いは「愛」ですし、人が誰もが自然に持っている欲求のひとつです。
一方、「認めてほしい」という承認欲求は、そのコミュニティに居続けるためのパスポートみたいなもので、疎外される、拒絶される、ハブられる、ことによって「孤立」「孤独」になることを私たちは強く怖れます。
だから、これもまた本能的な欲求だと思っていいでしょう。
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さて、その
>やっと自由になれたころに病気で亡くなって、結局何もできなかった。
という思いは無力感とか罪悪感とか言われます。
愛したのに愛しきれなかった。
助けたいのに助けられなかった。
役に立ちたかったけど無力だった。
そういう経験をすると母を愛していた分だけ、罪悪感もまた強くなるものです。
つまり、その「何もできなかった」という思いは、愛の裏返しで、それくらい深くお母さんを愛していらした証拠でもあります。
でも、お母さん自身はそれを望んでないことはお分かりでしょうか?
「自分の娘が自分が亡くなったことで自分を責めている。罪悪感に苛まれている。」
それを母が望んでいるとは思えないでしょう?
だから、愛していた分だけ後悔も強くなるのだけど、そこは母のために、意識を変えることをお勧めしたいのです。
「私なりにできることは全部やりました。十分ではなかったかもしれませんが、できることは全部やりました。」
なかなか抵抗のある言葉だと思いますが、自分を罪悪感から解放してあげるための、大切な意識です。
それを受け入れることは「学ぶ」ことです。
その「学び」が新たな「成長」を自分にもたらしてくれます。
どうしたらもっと母を喜ばせることができたのだろう?
どうすれば母をもっと安心させていあげられただろう?
「自分なりにベストを尽くした」と受け入れたあとにはここに向き合います。
もっとコミュニケーションを取っていれば・・・
もっとそばにいる時間を確保できれば・・・
もっとおいしいご飯を作ってあげられたなら・・・
もっと愛情を表現してあげたら・・・
それらを自分を責めるための道具ではなく、そこからより学び、成長するためのきっかけにするのです。
*
人の才能は案外、そういうところにあります。
母を助けたかったのに十分できなかった、という思いを、自分を責めるためでなく、自分をより高めるために転用するのであれば、それは才能として磨かれて行くものです。
その思いを「社会」に対して使っていくんです。
そしたら、それがライフワークになる可能性だって大いにあるものです。
>いきたい方向性がずっと定まらないのは、どっちにいきたいかが自分でもわからないからだと思っているのですが、そういった事も関係してくるのかななど。
母の存在が大きいならば、母の死に無力感を覚えているならば、そこから目を逸らさない方がいいと思います。
その無力感や喪失感を受け入れて、そこから学ぶことで、「いきたい方向性」ははっきり示されるものです。
そうした感情を受け入れられないと、自分が「いきたい方向」に強い抵抗を覚えます。
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例えば、こんな方にときどきお会いします。
子どもの頃から親に感情をぶつけられる存在で、愚痴や文句や不平不満を散々聞かされて育った方。
それは母だけでなく、学校の友達はもちろん、ときには先生からも相談を持ち掛けられるような日々でした。
「わたしはみんなの話を聴いてあげるのに、私の話は誰も聴いてくれない」
いつしか、そんな不満を持つようになりました。
それに、一度話を聴いてあげても、その人はいつも同じような話を繰り返ししてきます。
感謝されることもありません。
さも当然のように自分に話を聴いてもらいに来るので、いつしか、自分は「相手に消費されてる」と感じるようになります。
それがイヤなので、あるときから心を閉ざし、誰の話も聴かないようにしてきたんです。
けれど、やっぱり話を聴いてほしがる人は次々現れるし、仕方なく話に付き合ってあげても感謝もなければ、いつも同じ話をされるばかりです。
助けてあげられない、という無力感だって募ります。
それで人に関わらないような道を選んでいくことになるのですが・・・。
さて、こういう風に客観的に見れば、この方に「カウンセラーみたいな才能がある」ということは自明のことでしょう。
でも、そんな話をストレートにしたら、たいてい逆ギレされます。
「だってカウンセリングを受けたときも、カウンセラーの相談を聴く側になったんですよ!」なんておっしゃる方もいらっしゃいます。
そのとき、私などは「じゃあ、僕の話も聴いてもらおうかな~♪」と思う、、、、わけではなく、「それくらい助けたい人なんだな」と思うんですけどね。(私の性格、ひん曲がってますか?笑)
助けたい人だから、嫌な思いをしても話を聴いてあげちゃうし、何とかしてあげたいと思っちゃうし、でも、何ともならないからそこで無力感を抱えるし、でも、助けたい人だから、心を閉ざしていても助けを求める人が現れたら受け容れちゃうし、それでまた無力感を抱えるのだけど、やめられない・・・。
「才能」というのはそんな形で現れることが多いものです。
でも、そのままではその才能をポジティブに使えることはできません。
無力感、疲れ、罪悪感で心はいっぱいになるからです。
「方向性は間違ってないけど、やり方が間違ってるんですよー」とこともなげに私は言っちゃうので、そこで余計にムッとされます。
まずその才能を活かし、ライフワークを生きるためには「準備」が要ります。
今は才能だけで突っ走ってる段階だから、実はとても危険なのです。
この例で言えば、まず、自分にとって安全な場・人を見つけること。
自分が心が安らげる存在、自然と心が自由になれる場所、自分の話を聴いてくれる存在。
「そんな人いるわけないじゃない!」と思うかもしれませんが、たぶん、才能が先になってしまい、「助ける人」を探してきたから見つからなかったんだと思います。
ここ、ちょっと難しいですね。
「自分が助ける人」を無意識に探してきたから、「自分を助けてくれる人」は目に入らなくなってるんです。
だから、助けを求めてカウンセラーを探しても、そこで出会うカウンセラーは「自分が助ける人」になってしまうんです。
これが才能の怖さでもあります。
だから、「わたしにとって安全な場・人」を探すには意識を変える必要があるのです。
「わたしは助けてもらってもいい」という許可を自分に出すんです。
そして、これが意外と難しいことにきっと気づくと思います。
無力感、罪悪感がそれを拒むんです。
なので、その感情を受け入れる、ということも重要な準備です。
「わたしは助ける人。だけど、助けられなかった経験がたくさんある。それは自分がまだまだ未熟で、無力だったからだ。」
これを受け入れる、ということです。
これもまた抵抗が強く出てくるかもしれません。
でも、腹を括って、謙虚に罪悪感を受け入れたとき、おそらく何かから解放されて、体が軽くなる感覚が得られるでしょう。
そしたら、「わたしを助けてくれる人」も見つかりやすくなります。
こうして準備を整えていくんです。
そしたら、その「才能」をちゃんと使えるようになります。
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Mさんの場合も、同じように考えてみましょう。
母を助けられなかった無力感、母を投影した人たちを助けられなかった罪悪感を認め、受け入れます。
そして、自分を誰かに助けさせることを自分に許します。
そしたら、自分の才能を使えるようになるし、「お客様をもっと喜ばせたい」という情熱をより強く感じられるようになっていくでしょう。
そうすると「承認欲求」は勝手に満たされて行くものなのです。
無力感、罪悪感が癒えた分だけ、人に承認を求めなくなっていきます。
だって、自分が自分を承認できるようになっているってことだから、人に求めなくてもいいんです。
そしたら、
>やっぱり私にはできない、私なんてみんなに好かれない、だってどうせ私だもんみたいなパターンを変えたいです。
というパターンだって、気が付いたころにはだいぶ薄れていると思います。
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