(4/8)桜の木の下で



カウンセリングを終えて、食事をしに行った帰りにまた雨が降っていました。
傘を持っていってよかった・・・。
これで近くの桜もきれいに散ってしまうかなあ・・・。

午前中、ショコラと散歩しながら歩いた公園はちょうど散り始めの桜吹雪でした。
昼になれば、子連れのお母さん方で賑わう公園も、まだ人がまばらな時間帯で、ゆっくりベンチに腰掛けて桜が舞うのを観察できました。
妻が、今年は桜を見にいけなくて残念がっていましたが、来年は3人+1匹でピクニックでも行けたらな・・・とまた一つ夢が増えました。

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物事を刹那的に捉えてしまうことって、誰にでもあるのかもしれませんね。
何か問題が起きているときは「今だけでも楽になれば・・・」と何かに逃げてしまうでしょうし、将来に希望が持てないときは「今さえよければ・・・」と安易な選択をしてしまうこともあります。

弱さ、といえばそれまでなのですが、桜を見ながら、それは儚さでもあるんだろうな・・・と思いました。
弱さよりも、少し哀しい感じ、切ない感じがします。

見方は色々ありますが、桜も花だけを見れば一時の儚さを感じ得ます。
でも、それは流れの中では一瞬であり、そして、何事もなければ1年後にもまた楽しめる希望をもたらしてくれるものでもあります。
「来年は3人+1匹で・・・」と感じられる僕は、無意識であと1年は生きていることを信じている証明でもあるんですよね。

「来年も桜を見ることはできるだろうか?」
そんな気持ちを持った方もいらっしゃるでしょう。

また、そんな問いを病床の父親に尋ねられて、
「きっとできるよ。また家族で一緒に見に来よう」
と重い気持ちを隠して明るく嘘をついてしまった人もいるでしょう。

1年の重み、長さ。
そして、今、この一瞬の重み、長さ。
どちらも変わらないものなのかもしれませんね。

少し先の瞬間までを見るか、それとも、今、この一瞬のみを見るか。
そこが刹那に生きるかどうかの境目なのかもしれません。
刹那的な生き方には今はあれど、次の瞬間はありません。

今を楽しむことと、未来に投資すること。
どちらもカウンセリングでよくお伝えするメッセージです。
矛盾しているようで、実は同じ意味なのかもしれません。
今が未来で、未来は今だから。

桜というのは日本人に一番見つめられる花なのかもしれませんね。
そのせいなのか、一本一本の桜の木には、それを見た人の思いがずっと積み重ねられていくようにも思えるんです。
それゆえか、いつも、桜の木の下でぼーっとしていると、妙に感傷的な、哲学的なことを考えさせられるのです。


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