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子どもを産めない年齢になっていく、とか、予期せぬ問題が降りかかってきた、とか、ものすごくショックなできごとが起きた、というとき、私たちはその現実を受け入れられず、もがき苦しむものです。
そんなときは無理に受け入れようとか頑張ろうとかしちゃダメで、しばらくは気持ちのまま嘆き悲しんだりするのがいいんです。
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子どもを持つことができないことをどう受け入れればいいのか悩んでいます。
不妊に悩んでいるという訳ではなく、好きな人と結ばれることができないまま子どもを持つことが難しい年齢になり、「好きな人と自分の子どもを持つ」ということが叶える可能性がなくなることを受け入れかねています。
夫の不倫が原因で離婚して10年、40歳を超えました。不倫はありましたが人に「付き合っている」と言える関係になった男性はいません。離婚するときは、さすがにあと10年あれば結婚も子どもできるだろうと思っていました。
「絶対に子どもを産みたい」と思い続けてきた訳ではなく「好きな人の子どもを持ちたい」なので、前の夫とは積極的に子作りをしたことはなく(前夫をそこまで好きと思えていなかったと思います)、離婚後も別に好きな人ができるとその人とうまくいく確証はないのに婚活をやめたりなど、子ども優先で生きてこなかったのも事実です。
子どもができないならその人生を受け入れられるだろうと思っていたのですが、「産まない」と決めた訳ではないのにそれが不可能になることについて信じられない、怖い、悲しい、などいろいろな気持ちが渦巻いています。
本やブログも読ませていただいているので、現状を自分がつくり出していることは頭では理解しています。数年前「どうして自分がひとりでそんなことをしなければならないんだろう」と考えるだけで悲しくなった卵子凍結を(年齢的にも金額的にも厳しさは感じつつ)前向きに考えられるようになったことは進歩かもしれないと思っていますが。
根本さんに受け入れ難いことを受け入れる術を聞きたいと思いながら、どこかで一縷の望みを期待してしまう感情を自覚しています。
(Kさん)
「子どもを産む」ということについてはどうしたって年齢制限があるので、Kさんの年になってその可能性が少ないことを思うと悲しくなったり、絶望したりしますね。
もちろん、積極的に子どもが欲しいと思わなかったとしても「ああ、産めない年になったんだ」という思いはひたひたと心を締め付けるものかもしれません。
以前、ある女性が病気にかかり、子宮を全摘しなきゃいけないことが分かりました。
彼女は当時未婚でしたが「結婚はしたいけど、子どもはいらない」と思っていたので、その話をお医者さんから聞かされた時も「まあ、別に子どもはいらなかったし別にいいか。生理がなくなるのはありがたいし」程度に感じていたそうです。
しかし、日がたつにつれてだんだん得も言われぬ気持ちになってきてじわじわと悲しい気持ちに心が支配されるようになったと言います。
「もしかして私、ほんとうは子どもが産みたかった?」と気付いたときには目の前が真っ暗になるほどの絶望感で何日も泣き通しだったそうです。
その後、お医者さんに全摘を回避できないか相談したそうですが、今の医学では難しいようで、彼女はその手術を受け入れることにしました。
その後は「子どもが産めない=結婚できない」という思いにも悩まされましたが、その数年後に「あ、別にいいよ」っていう旦那さんと結婚し、今ではラブラブに暮らしている(はず)です。
他にも不妊治療に長年取り組んできたのに実を結ばなかった方もたくさん知っています。
彼女たちはどうやってその「現実」を受け入れていったのでしょうか?
もちろん、その一方で、年齢に思い切り抗って「いやいや、まだまだ諦めへんでー。卵子も凍結してるし、代理母制度も使えるしな!」と頑張ってパートナー探しをしているアラフィフの方も複数人知っています。
この微妙なテーマに関して男の私がコメントをするのもちょっと違うんじゃね?と思われる方もいらっしゃるかもしれませんけど、一応、カウンセラーなのでその立場からお話をさせていただきます。
「受け入れがたきできごとをどう受け入れたらよいのか?」
子どもが産めない、というテーマもそうですし、大切な人の理不尽な死もそうですし、もちろん、大きな病気、会社の倒産、突然の借金、大好きな人からの別れ話、信じていた人の裏切り行為・・・人生にはそんなできれば避けて通りたい道に迷い込んでしまうことが幾度となくあるものです。
職業柄、そういう方とリアルタイムにお会いすることが多いんですけれど、そういうときは変に前向きなことなんて言いません。
嘆きましょう。
泣きましょう。
悔しがりましょう。
怒りましょう。
神を呪いましょう。
人に甘えましょう。
誰かに泣きつきましょう。
感情のあるがままに振舞っていいですよ、と言います。
酒におぼれてもいいし、やけになって男と寝まくってもいいし、家に引きこもって一歩も外に出ない生活を送ってもいいし、何してもいいですよ、と。
逆にそんな辛いときにふつうに会社行ってるなんて聞くと「アホか?」と言っちゃったりします(笑)
今の気持ちが悲しく、寂しく、怖さで震えるほどならば、その気持ちのまま過ごしていくのがいいんです。
もちろん、あまりに辛いので、その恐怖心から逃げてもいいし、何かで寂しさをごまかしたっていいです。
そんな時は全部OKなんです。
もちろん、人をあやめたり、傷つけたりするってのはお勧めできないですけれど、でも、それくらい辛い気持ちを人に吐き出すのは全然OKだと思います。
その感情にひたすら浸り続けていいんです。
「生きてりゃ何とかなりますよ」と私なんかはテキトーに言うんです。
「でも、だからって子どもを産めるようにはならないでしょ?」って思われるかもしれませんが、「子どもを産めない人生を受け入れられるようにはなる」かもしれません。
あるいは、何とか「子どもを産む方法を探しまくる」という風になるかもしれません。
長き哀しみ、絶望し、重たい気分を引きずりながらかろうじて日々を過ごすような時を経ると、あるとき「底」を打ちます。
人の心ってほんとうに強いんです。
むしろ、その気持ちを否定するように、隠すように、抑えるように無理するほうが危ないくらいで。
そんな気持ちを抱えながら、明るく振舞ったり、大丈夫なふりしたり、頑張ったりする方がアホなわけで。
そうして「底」を打つまでは時に「廃人」のような生活をしていても大丈夫です。
生きてたら何とかなるっす。
「まあ、こんなことしてても意味ねーか」と思ったり、動き出したくなってうずうずイライラしてきたり、なんか明るい光が一筋差し込んできたり、ある瞬間に信じられないくらいふっと心が軽くなったり、突然「ま、何とかなるか」と悟りの境地に達したり、底を打つと自然と心が浮かび上がります。
プールに飛び込んで底まで沈んだあとに力を抜くとふわーっと体が水面まで浮き上がっていくでしょう?
そんな感覚が訪れるようになるんです。
もちろん、今は信じられないかもしれないけれど。
ただ、1回浮上したからあとはもう大丈夫!とはならないことも多いです。
また、何かの瞬間に「ああ、あたしはもう子どもを産めないんだ」と思って絶望の淵に沈んでしまうこともあります。
けれど、1回浮上したって経験があると、今度はそこまで深刻に悩むことはなくなります。
前より寂しく、苦しい気持ちがしたとしても、浮上した体験はウソを付きません。
涙を流しながらもどこかで「また何とかなるんだろうな」という思いを感じられます。
そうして2回目の浮上を体験すると、それが自信のようなものに変わります。
仮に3度目がやってきたとしても、もうそれほど深刻にはなりません。
でも、それは「自然に任せた場合」ね。
頑張って浮上しようとしたり、周りの人のウソの笑顔を振りまいたり、前向きにならなきゃ!と無理していたり、「大丈夫大丈夫!」と強がっていたり、こんな状況は嫌だ!と否定しまくっていたり、誰かのせいにしてみたり、その気持ちを否定し続けるなら、残念ながらなかなか気持ちがすーっと抜けることって難しいなります。
だから、ふつうに会社行ってるなんて聞くと「アホか」と言っちゃうわけですね。
元気だったら別にいいんですけど、しんどいならやっぱりペースを落とす、あるいは、休む、動けないんだったら動かない、そんな基本姿勢が大事です。
そこを無理すると、それこそ「まだ傷が治りきっていないのにトレーニングを再開してより患部を悪化させる」ということをやっちまいます。
そんな時は人目も世間体も偉そうな周りの人の話もすべて「どうでもいい」と思って、自分の心のあるがままにしてあげるのが望ましいんです。
>子どもができないならその人生を受け入れられるだろうと思っていたのですが、「産まない」と決めた訳ではないのにそれが不可能になることについて信じられない、怖い、悲しい、などいろいろな気持ちが渦巻いています。
予想と違うことが起きるってのは冒頭の子宮を全摘した彼女と似てるかもしれませんね。
けれど、その怖さや悲しみ、そして、信じられない気持ちはウソじゃないので、駄々をこねたり、泣いたり、震えたり、その気持ちをそのままにしておくといいです。
「すべては自作自演」だと誰かが言ってるからって、そんな悲しみが強いときに「子どもを産まないのは自分が作り出した現実なんだ!だから受け入れるんだ!」と頑張っても、逆にしんどくなってしまうと思うので、そこはスルーしましょう。
そうして嘆き悲しみつつ、日々を何とか生きていると、だんだんその状況を受け入れられるようになっていくでしょう。
そうすると新たな一歩をまた見つけ出すことができるようになると思います。
もしかしたら「やっぱり子ども産むわ!!」と気合が入る可能性だってなくはないんです。
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さて、そうした話を前提としまして、大上段から少しお話をしていきます。
「運命論」というのとはちょっと違いますが、私たちは無意識の領域でこの世界をどう生きるかを決めて生まれてきています。
子どもを産むかどうかというのも一つのオプションで、周りの天使たちがそのオプションに「〇」を付けていた横で、Kさんは空欄のまま神様に提出していたのかもしれません。
Kさんの場合も少なくても今の年頃に「子どもが産めなくなることについて嘆き悲しむ」というシナリオを描いていたのかもしれません。
よく「なるようになる」って話をしますけれど、そうした部分は自分の意識で何とかなるものばかりではなく、自分の力の及ばない世界に影響されることも少なくないものです。
人との出会いもそうですし、予期せぬ問題の勃発もそうです。
それを被害者になって悲嘆することもできるのですが、自分のあずかり知らぬところで自分自身がその計画をしていたとすれば、その問題もだんだん受け入れられるようになっていきます。
ああ、そういう風になっているんだな、という風に。
人生を俯瞰してみる、ということになるのかもしれませんが「子どもを産まない人生を選ぶってことは、そこに何らかの意味があるんだな」ということが分かるようになるんです。
そもそも私たちは親を選び、男女を選び、顔形だって自分でデザインして生まれてきています。
それは何らかの目的があり、意思があり、意味があるんですね。
ただ、今ここに生きている私たちがその意味や目的を忘れちゃっているだけで、かつては何らかの意味付けをしていたのかもしれないのです。
(もちろん、その意味付けってのも適当な場合がありますけれどね)
Kさんが今の気持ちを素直に吐き出しつつ、その悲しみや寂しさに底を打ち、気持ちが上がり始めるときっと「ああ、そういう風になっているんだな」という思いを感じられるようになると思います。
それはある種の確信を持った思いで、根拠はないけど不思議な力を感じるでしょう。
「ああ、そういう風になっているんだな」という風に感じるのは、その問題を自分が完全に受け入れた証拠でして、それだけKさんの器がまた広がった結果です。
つまり、受け入れがたき問題、予期せぬできごとが起きた時にそれを否定し、苦悩し、嘆き、悲しむのは、その問題を受け入れるほどの器がまだ自分にできていないからです。
しかし、その感情を認め、流し、吐き出していくことでだんだんその器が成長し、大きくなっていきます。
その結果、ある瞬間にその問題まるごとを受け入れられる器が自分の心の中に完成するんです。
そうすると「ある日突然ふっと気持ちが楽になって、それが問題とは感じられなくなった」という悟りの領域に達するんです。
だから、それまでの間はできるだけ「ありのままに」「あるがままに」過ごすのがいいんです。
受け入れようとする必要もなく、器を広げようなんてすることもなく、ただ泣いたり、嘆いたり、悲しんだり、寂しがったり、怒ったりしていることがいいんです。
できればそんな時は信頼できる人に話を聞いてもらえるともっといいですけれど。
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