「信頼して与える」のカギは「自分軸」にあり。



「信頼して与える」というのは、「信頼する」と「与える」の2つの「愛」がある素晴らしい行為なのですが、それゆえに相手に期待したり、犠牲したりする「他人軸の罠」に引っかかりやすいものです。
その難しい概念をかみ砕いてお届けします!

お世話になっております、ちょっぴり武闘派のTです!
最近、親にたいしても仲良しなのに、遠慮があることに気づきました。これってパートナーシップにも影響してると、気づき、彼に明るい自分だけでなく弱い自分も見せるようにしてお願いしたりしてるわけですが、上手く伝わってるのかよく分かりません(笑)

カウンセラー並みの繊細さと何人かに言われるので、最近は自分が特殊なのかもと思ったんですが、彼に対して投げやすいボールを研究してるものの謎だなぁと。

彼のことを思ったより単純みたいだなぁと思ってる訳ですが、信頼して自ら与えるということを、よかったら説明してもらえると嬉しいです。

よろしくお願いいたします。
(Tさん)

女子がいう「ちょっと」や「ちょっぴり」は言葉通りに受け取ってはいけないと経験上深く刻み込まれている根本です。こんにちは。

ほら、女子の「ちょっと怒ってる」って、ちょっとなわけないやん??
それを信じたらあとで地獄見ることになるやん??(トラウマ)
なので、Tさんの「ちょっぴり武闘派」という深刻は「ものすげー武闘派」と訳した方がいいんですよね?みなさん!!

さて、カウンセラーがそんなに繊細かどうかは別として「信頼して与える」ということについてはとても重要なので今日はそんなネタをお話してみたいと思います。

まず、彼に限らず、男は基本シンプルです。(日本語に訳すと“男はものすごく単純です”)

自分の縄張りに様々なセンサーを張り巡らし、高性能レーダーにて敵の動向を探りつつ、最適な戦略をはじき出し、獲物に対して正確無比な砲撃を放つことを日常としている女子に対し、男子は、そんな女子たちが見えない非常線を張り巡らすゲリラの森に「Tシャツ+短パン+虫取り網」でセミを捕まえに行くくらいの単純さを備えています。

そんな男子に対し、迷彩服にフェイスペインティング、各種無線装置、そして、ライフルにバズーカ砲を携えた女子たちは「男ってバカなの?何も考えてないの?ここは戦場よ!」と訝しむのですが、ええ、男ってそういう生き物です。あきらめてください。

だから、ふだん女子同士に対してフル活用している最新のレーダー装置群もかえって役に立たず、「え?やっぱり男ってバカなの?何も考えてないの?」という疑念をさらに掻き立てることになるのです。

いわば、女子同士ならば「オブラートを10枚くらい包んで伝えなければいけない言葉」も、男子に対しては「むき出しでもまだ足りないくらい」なのです。

その辺の男女の違いについては下記の本に詳しいので、暇なときに読んでムカついてください。

「愛されるのはどっち」(リベラル社)

「頑張らなくても愛されて幸せな女性になる方法」(リベラル社)

さて、「信頼して与える」ということについてですが、ここには2つの要素が組み合わさっています。

「信頼する」と「与える」です。

「与える」ということについては、自立系を標榜する方々はさほど困難を伴わないと思います。
ふだん、ふつうにやってることが多いからですね。

すなわち、「相手が喜ぶことをしてあげて、それが自分も嬉しい」というのが「与える」という意味です。

「相手が喜ぶことをしたけど、あたしは嬉しくない」というのは「犠牲」と言います。
「相手が喜ぶことをしたんだから、あたしのことも喜ばせて欲しい」と思うのは「取引」と言います。

どちらも「与える」ではなく、「愛」でもありません。

つまり「与える」というのは、相手の反応に影響されません。
そう、「自分軸」であることが必須条件ってことです。
(相手が喜んでくれる、という思いは「他人軸」でしょ?)

愛する人を喜ばせたくてご飯を作ってあげる、その行為そのものが嬉しくて、別に相手が「おいしい」って言ってくれなくても全然平気!という状態が「与える」ということです。
むしろ、その時には「ご飯を作らせてくれてありがとう!!」という感謝すら生まれます。

困ってる後輩に懇切丁寧に仕事を教えてあげて、相手が感謝してくれないからと便所裏に呼び出してボッコボコにしてるのは「与えてる」わけではないんですね。

欲情にまみれ、汚れた心を持つ武闘派なみなさんにとっては信じられない世界かもしれませんが、意外とあんたたちも「狙った獲物」以外にはそういうことしてるんだよ、ということをお伝えしたいです。

相手の反応に関わらず、「させてもらってありがとう」って感じることって日常的にありませんか?

それが「与える」ということなんです。

さて、問題は「信頼する」です。

「与える」に対して「犠牲」や「取引」が持ち出されるように、「信頼する」にも「期待する」という罠が仕掛けられています。

「誠意をもって相手に尽くしたのだから、きっと相手も分かってくれるだろう」というのは「信頼」でしょうか?それとも「期待」でしょうか?

「自分なりにできることはやったんだから、これでうまく行かないのはおかしい」というのは「信頼」でしょうか?「期待」でしょうか?

「せっかく一生懸命やったのに、全然感謝を示してくれないなんて損した」というのは「信頼」でしょうか?「期待」でしょうか?

ええ、全部「期待」です。

相手を信頼している人は、同様のケースでこんな風に感じます。

「誠意をもって相手に尽くしたんだから、なるようになるだろう」

「自分なりにできることはやったんだから、結果はどうでもよい」

「一生懸命やったことに満足感も意義も感じるから、相手が感謝してくれるかどうかは関係ない」

全然違うでしょう?

「期待する」というのは、「自分にとって都合が良い、ポジティブな相手の反応のみを受け入れる姿勢」とも言えます。
すなわち、相手を自分の思い通りにしたい(コントロールしたい)のです。

一方、「信頼する」というのは、自分にとって例えネガティブな反応であったとしても、それを受け入れる覚悟ができています。

もう少し一般的な例をあげれば「浮気した彼を信頼する」というのは、「もう二度と浮気しないでね!」ということを期待するのではなく、「彼が浮気しようがしまいが私は彼を愛する」という覚悟に他ならないのです。

だから、「信頼」ってものすごく難しいのです。

そして、すでにお気付きの方もいらっしゃるかと思いますが、「信頼する」のもやはり「自分軸」であることが必須です。

相手の反応に振り回されるってのは「他人軸」なわけで、それが「期待」になるわけですね。

ええ、難しいでしょう?
そんなことできるの?って思うでしょう??

これはまあ「理論値」なので、なかなかそれを実現するのは難しいですし、できなくても全然OKなくらい難解なプロセスなので、できなくても自分を責める必要はありません。

だって「人間だもの」というわけです。

ただ、先ほどもチラッと触れましたけど、私たちはできなかったことには気づくけど、当たり前にやってることには気づいていないので、意外と「信頼して与える」ってことを日常的にやっているのが私たちです。

「与える」も「信頼する」も「愛する」のひとつの表現です。

だから、「愛する人」に対しては私たちはふつうに、当たり前に「信頼して与える」ってことをしているものです。

ママたちがなんで思い通りにならない子育てにあそこまでエネルギーを発することができるのか?と言えば、そこに膨大な愛があるからです。
子どもが自分の思い通りにならなくてイライラしちゃうこともあるけれど(←人間だものしゃあないよね)、自分の気分が良い時は全然笑って許せたりするでしょう?

彼が喜んでくれるかどうかなんて分からないのに、彼のためにニコニコしながらデートの計画を立てるのも、彼への愛があってこそです。
喜んでくれなきゃ悲しい場面もある一方で(←人間だものしゃあないよね)、でも、一緒にいられる幸せを感じたり、「ついて来てくれてありがとう」って感謝が出てきたりするでしょう?

従業員のために奔走する社長さんが、ミスが多くてあまり戦力にならない従業員を「かわいいなあ、憎めないんだよなあ」という目で見ているのも、信頼して与えてる姿に見えます。

仕事を一生懸命教えてもなかなか覚えてくれない後輩のことを「あの子は時間がかかるタイプなのよね。だから、気長にやるしかないわ。そのうちできるようになるよ」という目で見守ってあげるのも「信頼して与えてること」に他なりません。

カウンセラーってクライアントさんの価値や魅力や才能をたくさん見るんですね。
昨日も個人セッションで「信じられないかもしれないけれど、あなたは男性を癒す才能がものすごくあって、セクシャリティがすごく豊かなんですよね。だから、そういう傷ついた男たちばかりを好きになっちゃうんです」という話をしてたんですけど、私はハナからその言葉を受け取ってもらおうとは思っていません。

彼女は大人なので否定はしませんでしたけど、「えっ?」と驚いた顔をされていました。
いつか分かる日が来るかもしれないし、そうでないかもしれないけれど、それでもいいや、と思ってます。

ただ、いつでも思い出せるようにメモにその魅力や才能を書き記してお渡ししましたけど。

それで長い長い前戯の後にあっという間に終わる本番がようやく始まるわけですが・・・。

Tさんのお話。

彼に対して弱い自分を出せるようになった/出そうとしている、というのは素晴らしいチャレンジですよね。
もちろん、その件に関してはバリバリの初心者なので、すぐにうまくいかなくても当然ですよね。
だから、「伝わってんのかなあ?」と疑問に思うのも無理はありません。

で、コミュニケーションというのは、「相手が受け取りやすいボールを投げてあげ、相手のボールはできるだけ一生懸命取ってあげる」というのが基本です。

だから、彼が受け取りやすいボールを研究することはものすごく素晴らしいことなんだけど、そこに「受け取ってよ!(分かってよ!)」という他人軸的な期待が入ると、途端に徒労感、空虚感に襲われたりしますよね。

そういうのは頑張り過ぎなときでして、ちゃんといいボールを投げようと意識し過ぎているのかもしれません。

コミュニケーションというのはスキルなので、「このボールは取れるかな?あら、取れなかった。じゃあ、これはどうかな?おお、これもダメかー。きついなあ。そしたら、このくらいだったらどうだ?おお、これなら取れるか!よし!」という経験を繰り返すことで磨かれていきます。

そして、それは「彼への愛」がベースになるわけでして、あれこれ伝えようと頑張る一方で、「彼、素敵だわあ。いい人だわあ。かっこいいわあ。惚れるわあ」とニヤニヤしながらヨダレを垂らしておく習慣は忘れちゃいけないと思うんですね。

変に頑張りすぎるとついつい他人軸(彼軸)になって自分を見失ってしまうので、愛情表現や愛を受け取ることも忘れずにいたいもんですなあ。

まあ、男日照りな武闘派女子の皆さんにとってはイラッとされたかもしれませんが、いつの日か自分も体験することだと寛容に受け取っていただければ幸いでございます。

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