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「まあ、それはその人がしたくてしてることだからね~。何か事情があるんだろうね~。まあ、あたしは付き合わないけどね~」
「いや、私はそういう人、めっちゃ嫌い!むしろ、攻撃したくなっちゃう!」
どちらも正解です。
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父方の祖母も、「自分は性格が良い」「自分は優しい」と自画自賛せずにはいれない人なのですが(自分へのうぬぼれもすごく強い)、、、そういう人たちの共通点は何だろうか?と、そういう人たちの言動や行動を観察しているといくつかの共通点が見えてきました。
1、自信家
2、支配的
3、粘着気質
4、恩着せがましい
5、すさまじく攻撃的
6、人を見下す傾向が強い
特に、2(支配的)と5(すさまじく攻撃的)と6(人を見下す)は外させないというぐらい、みんなが持ち合わせている共通点だなと。それも、相手の息の根が止まるぐらい言い負かしたり、打ちのめしたり、徹底的にやらないと済まない人が多いなと感じました。
ちなみに、祖母も暴言吐いたり、物投げつけたり手をあげたり、人の見下しも凄まじいです(汗)
本人たちのなかでは、そこは無いことになってるのか?
そんな面にすら気づいてないのか?分かりませんが、優しくない人ほど、親切でない人ほど、自分のことを、私は優しい人間だ、私は親切な人間だと口にし、逆に優しい人ほど、親切なほどそのようなことは口にしません。
傍から見ていると、とても滑稽に見えるのですが、本人は至って本気なので、ツッコめないというか。こういう自画自賛タイプについて、根本さん的見解分析をお願い致します。
(Nさん)
そういう人いますねえ。
「俺って優しいからさ~」って言う奴ほど周りからは「どこがっ!」と総ツッコミ入れられてたりね。でも、怖いから表立って言う人はいないので、本人は「な!そうだろ?みんな、認めてくれるだろ?」と調子に乗っていくわけです。
ただ、そういう人の中にも優しさはあるわけで、自分には見えないだけなのかもしれません。
優しさの表現って人それぞれ違うし、程度も全然違います。
人のことを評価することを私たちはよくしてしまうわけですが、それはあくまで「一般論に則った個人的判断」に過ぎないことを忘れてはならないと思います。
「私は客観的に彼らを観察している」って思えば、自分の意見や考えを正当化できるわけで、その「自分は正しい」という見方が人間関係を乱すことはよくあるものです。
ということで、通販番組などでよくみられる「※個人の感想です。」のテロップを私たちは常に持ち歩く必要があるわけです。
じゃないと、単に自分を正当化して悪口言ってるだけってことになります。
よくあるのは「あいつは人の気持ちを考えてない!ひどいことばっかり言いやがって」と言った瞬間に、自分も「あいつ」と同じことをしている、ということですね。
でも、「あいつよりは自分はまともだ」「自分は全然マシだ」「あいつの方がずっとヤバい」という優越感のようなものがあるので、そのことには気付けません。
こういう問題は「自立の依存」というレベルで語ることができます。
自立しているので論を立てて、思考的、あるいは、客観的に自分の正しさを主張しますが、その裏には「分かって欲しい」「受け入れてほしい」「認めてほしい」「愛してほしい」等々の何らかの依存心があるわけです。
「これだけ頑張ってやってるのに、なんで評価してくれないんだ!」
「誰のためにご飯作ってあげてると思ってるの!」
「私がどれだけあなたのことを考えてるか分かってる?」
こうした発言はそうした「自立の依存」を表していると言えます。
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こうして自分を正当化して「正論」という刃を振りかざすと相手の内面が見えなくなってしまいます。
「判断」(ジャッジメント)って言うんですけどね。
「俺は優しい」と言ってる奴に対して、「お前、全然優しくないじゃん」と思うのは、自分の基準においてはそれが真実なんですが、それを判断してしまう(決め付けてしまう)と、その「俺」が持っている優しさに気付けなくなります。
自分にとっては優しくないけれど、お母ちゃんには優しいのかもしれないし、猫には優しくしてあげてるのかもしれません。
また、優しさみたいな内面的なことって目に見えるものでもないし、基準が明確でもありません。
「全日本優しさ選手権」が開催されないのも、基準があいまいすぎるからでしょう。
自分にとっての優しさと、「俺」にとっての優しさが違うのかもしれませんね。
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それにそもそも「長所」とか「短所」というのは、その観察者の感情によって決められるものなので、実にあいまいかつ個人的なものなのです。
ある人にとっては「優しい」のだけど、別の人にとっては「都合のいい奴」とか「優柔不断な奴」と映るかもしれません。
ある人にとっては「怖い奴」だけど、別の人にとっては「憎めない奴」とか「不器用な奴」と映るかもしれません。
だから、人を客観的に評価することってほんとうに難しいというか、不可能なんだろうと思います。
自分が見ているのはあくまでその人の一面ですから。
だから、Nさんのリクエストについても、「Nさんはそういう目に遭ってきて、そういう人たちに怒りを持っているんですね」ということ以上は言えないのです。
一般的に、自信家というのは自信のない人がとる態度ですし、人を見下したり、攻撃したりするのは、それだけ怖れが強く、人に対する不信感が強いんだろうと思います。
自画自賛ばかりしていて、恩着せがましい人っていうのは、それくらい自信がないのでしょう。
ただ、それだけの目に遭ってきたんだろうと思いますし、じゃあ、彼らにいいところがないのか?というと、必ずしもそうは言えないと思います。
つまり、そうせざるを得ないほどのひどい目に遭ってきたのかもしれないです。
彼らが育った環境、出会った人たちのことを聞けば、きっとその背景も明らかになるでしょう。
そうすると、自画自賛ばかりしているメンドクサイ奴だけど、何だかんだ憎めないところもあるよねえ、と分かってくるかもしれません。
それを「理解」とか「許し」とか言うんです。
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とはいえ、だからといって彼らとうまく付き合う必要は全然なくて、大人になれば自由も利きますから、距離を取ることもできます。
だから、「で、Nさんはどうしたいの?」というお決まりの質問が出てくるわけです。
Nさんは祖父母を始めとして、そういう人たちに嫌な思いをたくさんしてきたのでしょう?
それに怒りを感じているし、嫌いなんでしょう?
それで何とか彼らをやり込めたいと思っているのかもしれないし、客観的に間違っていることを証明してやりたいのかもしれません。
で、そういう気持ちになるのは無理はないことだとして、そこで「じゃあ、私は何がしたいの?どうしたいの?」と自分に問いかけてあげることがお勧めです。
距離を置いて遠くから眺めるだけでもいいし、懐に飛び込んで仲間にしてもいいです。
そんな人間関係について書いた本。
↓
>「敏感すぎるあなたが人付き合いで疲れない方法」(フォレスト出版)
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さて、心理学と言うのはとかくメンドクサイというか、嫌らしい性格がありまして、「目に見えるものはすべて投影」なんてことを言いだすんですね。
自画自賛する人たちが目の前に現れるということは、「ああ、自分の中にもそういう要素があるのかもしれないなあ」と受け入れるのがお勧めです。
自分の中にないものは見えないか、気にならないかですから、見えるし、気になるってことは、自分の中にあるわけです。
そこで謙虚さを学んでもいいし、自分の中にあるそういう要素を受け入れたのちに手放すことを選択してもいいです。
人のふり見て我がふり直せ、ということで、「自画自賛ばかりして他者承認を求められるときついから、自分はそういうことをしないように気を付けよう」とか「彼らの姿を見て、ああ、自分もまだ自己承認半ばなんだな、根本さんの本を熟読して自己肯定感をあげることにしよう」などと思っていただけると、根本さんは喜ぶわけです(笑)
人は鏡であり、人は先生です。
そこから自分自身に何をフィードバックし、何を学ぶか?ということです。
成長するチャンスは常にありますね。
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自分と合わない人、自分が嫌悪感を抱く人と出会ったときにも選択があります。
その人を理解してもいいし、距離を置いてもいいし、バカにしてもいいし、攻撃してもいいです。
自分自身の選択です。
そこで、自分がどうありたいか?どう生きたいのか?ということが問われています。
私はそういう人と出会ったら、事務的に付き合い、距離を置き、嫌いになり、しばらく経ってから「ああ、自分の中にもまだそんな要素があったんだ!」と受け入れることが多いです。
距離が近いとしんどいもんね。
そんな人間関係を楽にしてくれるのは自己肯定感。
↓
>「敏感すぎるあなたが7日間で自己肯定感をあげる方法」(あさ出版)