先日、事務所のひとみちゃんが「昨日、めっちゃ笑いましたよ」と言い出したので、何?と興味津々で聞いてみた。万事、物事を自らに都合よく考える私は事務所の誰か、もしくは、社長がまた何かをやらかしたんだと思ったわけである。
「昨日、ねむねむ、金庫とか全部開けっ放しで帰ったでしょ?パッと見たら、どれも全開で思わず笑っちゃいましたよ」
なんと、私自身のことであった。
私たちカウンセラーは面談カウンセリングを終えると売上げを事務所の金庫に入金することになっていて、その鍵をかけることによってセキュリティを保っているわけである。
どうも私はそのセキュリティを自ら全て破って帰ってしまったらしい。
ひとみちゃん始め、事務所に数人のスタッフがいたため大事には至らなかったが、もし誰もいなければえらいことである。
実は私、そんな“開けっ放し”は常習犯なのである。
おそらくそのときも、何か考え事をしていたか、慌てていたか、すばらしいアイデアが浮かんだかで、目の前の物事がどうでも良くなってしまったのであろう。
以前も、東京のカウンセリングルームを出発する際、バスの時間が迫っていたのと、その日のセミナーのすばらしいネタが舞い降りたせいで、ドアと言うドアを全て開け放って出かけてしまったことがある。
その数十分後、カウンセリングルームを訪れた村本が「泥棒が入ったかもしれない!」と怖れおののいて事務所スタッフに連絡を入れたほどである。
その連絡を受けた、普段はとても冷静沈着な河合君が「あの村本がビビッてる」というのと「ドアが開け放たれていた」という異常事態から、若干表情を引きつらせながら「根本君、カウンセリングルームのドアが開けっぱなしだったらしいんだけど、何か心当たりある?」と聞いてきたのである。
「え?あ、まじで。ごめん。たぶん、それ、僕だと思う・・・」と言うと、その場の緊張は一気に白けた。
「根本君らしいよ」と電話をかける河合君も、その電話口で「あ、そうなんだ」と返答したであろう村本も、相当白けていたことは想像に難くない。
また、つい先日、普段持ち歩いている扇子が見つからないので、ちょっと焦ったことがあった。
若干ボロボロになっていたので替え時ではあったのかもしれないが、その分、愛着のあった代物である。
あれ?どこに行ったんだ?と探すと程なく、いつも扇子を入れていたカバンのチャックが全開になっていたことに気付いた。
ああ、きっとここから落ちたんだろうな、と思わざるを得ないほどの開き具合であり、捜索活動を続ける気力を失わせるほどの思い切りの良さであった。
その後、汗っかきの私は扇子がないと仕事にも差し支えるので、早速、東急ハンズに扇子を買いに行ったのである。
しかし、そのわずか数日後、奮発して買った新しい扇子も行方が分からなくなったのである。
前になくしたボロボロの扇子は、愛着はあったとはいえ、前年コンビニで買った800円ほどのものである。しかし、東急ハンズは東急ハンズである。桁が違い、2000円もした。
それもおそらく、バッグをすり抜けて旅に出られたんだろうと思う。私のバッグは、たたまれた扇子が通るくらいの隙間は常に空いているのである。(自慢するほどのことではないが)
しかし、それを購入したのは妻の眼前であった。よって当然、証拠隠滅のために私は翌日まったく同じデザインの扇子を買いに行かなければならなくなったのである。
しかし、本当に新しいものほど無くし、どうでもいいものほど物持ちがいいのはなぜであろう?
傘にしても、コンビニで買った500円傘の寿命は年単位であるのに対し、普通に買った2000円の傘が1シーズンを乗り越えられないのはなぜであろう?
さて、全く同じデザインの扇子を購入し、これで事なきを得た、と安堵した次第であるが、大変言い難いことではあるのだが、その証拠隠滅のために買った扇子も最近姿を見ないのである。
きっと部屋のどこかのカバンに潜まれているものと思い、深く詮索はしないようにしている。
もちろん、妻にはその事実は徹底的に伏せられていることは言うまでもない。
さて、仕事先、外出先でその体たらくなわけであるから、プライベートにおいては更に拍車がかかっているのである。
手持ちのバッグ、または、背中に背負ってるリュックサックのチャックが開いてることは、ほぼ、日常のできごとである。
飲みに行った帰りにチャックがほとんど全開になっていて、「これでよく何も落ちなかった・・・」と感心したことも一度や二度ではないし、リュックサックが全開になってびろーんと口が垂れ下がっているようなときだってあるのである。
もちろん、それらは妻または小姑の娘、そして、通りすがりの親切なおばちゃんのご指摘によって何とかなっているのである。
妻曰く、「そんなに大口開けていてなんで気付かないのかが分からない」らしい。
また、自宅においては「ひろゆきが歩いた後は、ドアが開けっ放しだからすぐに分かる」と言われるくらい見事らしく、この間も小姑である娘から「トイレに入ってるときはドアをしめなさい」と大声でたしなめられた次第である。
そういえば、基本、私はドアを閉めることを由としない傾向にある。
自分の部屋は仕事をしているときもオープンにしており、故に、空気の読めない娘が平気な顔をして入ってきて、締め切り間際の原稿を書いているパパの椅子によじ登ってきたりするのである。
例外は神経を集中させる電話カウンセリングの時くらいで、取材でかかってくる電話のときも、基本はオープンにしているくらいである。
カフェ好き、酒好きであるが、どぢらもオープンエアな空間を好み、そうでなければ、窓が大きく開かれた店を贔屓にする。
夏や冬でも、外のテラス席を希望することもあり、春や秋の気持ちがいい季節は、そういう場所を求めてさ迷い歩くほどである。
反対に、窓の無いセミナールームや、閉じられたカラオケボックスなどは息苦しさを感じてしまい、長くはいられないのである。
先日、妻とそんな話をしているときにふと気が付いたことがある。
それは“閉所恐怖症”なんじゃないか?ということである。
もちろん、軽度ではあろうと思う。エレベータにも乗れるし、トイレの個室だって大丈夫だからである。
とはいえ、そんなオープンカフェが好きな理由と、かばんのチャックや部屋のドアを開けっ放しにする理由とを一致させるのは単なる言い訳なのかもしれない。
ともかく、同志の多いことを切に、望む。