「散歩道での挨拶について」



このところ私の朝の散歩ルートは、自宅からそのまま北上し、ニュータウン内の街路樹を眺めながら歩くコースに落ち着いてきた。
きっと春になれば桜がきれいなんだろうな、と思いつつ、同時に、それまでにこのルートに飽きてしまうんだろうな、などとも感じている。

娘と一緒に家を出るので、散歩時間は通学時間帯に当たる。ゆえにPTAや地元の有志が横断歩道のところに立って子ども達の安全に目を光らせているのである。
私は、「ウォーキングをしている無害な大人」を演出すべく、帽子を被り、首からタオルを巻き、両手にはウェイトを持って歩いている。
ほぼどこから見ても変質者には間違われないような配慮である。


さて、いつも同じルートを、ほぼ同じ時間に通過するということは、同じおじさん達と毎日顔を合わせることになる。
最初の頃は、そ知らぬ振りして「おはようございます」などと言葉を交わしていたのだが、顔を合わせる回数が増えるほどに、徐々に顔見知りレベルに関係が進展していくのである。

すると、挨拶をするタイミングが難しくなる。
お互い妙な意識が芽生えるわけである。

ちっちゃな話しであるが、まあ、聞いてくれ。

私のルートには主に2人のおじさんと、1人のおばさんがいる。後はPTAの持ち回りか何かで頻繁に入れ替わるが、たいていこの3人は常連、もしくは、固定メンバーらしい。

最初に出会うおばちゃんは無表情に口だけを動かして「おはようございます」というタイプであった。
初めてこちらから挨拶をしたとき、少々びっくりされてたことは記憶に新しい。人見知りが激しいのか、とても恥ずかしがりやなのか、通り過ぎる子供達に対しても、顔見知りと思われる父兄に対しても、基本、あまり表情は変わらない。
それに気付いた私は俄然やる気を燃やし、そのおばちゃんから笑顔を引き出すべく、顔を合わせるたびにニコッと笑って挨拶するように心がけた。慣れぬ挑戦ゆえ、私の笑顔も若干引きつっていたかと思う。
すると、意外と早く、と言うか、1ヶ月も経たないうちに、そのおばちゃんは周囲に笑顔を振りまくいいおばちゃんになってしまった。
私へも満面の笑みを向けてくれる。やはり、本来いい人だったんだろうと思われる。

また、最後に出会うおじさんは、いかにも人見知りで恥ずかしがりなおっちゃん(意外と大阪にはこの手のおっちゃんは多い)で、挨拶を交わす“仲”になるにも、しばらく時間が必要であった。始めは若干挨拶をしても無視されていたように思われる。
それが徐々に、無愛想ではあるものの、こちらが挨拶すると“ついで”と言った感じで返事をしてくれる状態になり、その変化にますます私はやる気になり、そのおっちゃんには敢えて笑顔で、声も張り気味で挨拶をするようにした。
すると、その効果かしばらく経つと、はにかみながらも私を認めると挨拶をしてくれるようになり、何となく「勝った!」という気分になった。

上記2名に関しては若干私が心理的に優位になってるような気がしているので、あまり問題はない。

しかし、2番目に出会うおっちゃんに関しては少々事情が違う。
そのおじさんと出会うのは比較的見通しがいい交差点なので、100メートルほど先からその姿が確認できてしまうのである。そこから、一歩一歩近づいていき、残り30メートルほどになると、お互いがお互いを認識して、挨拶のタイミングを計るようになる。
すなわち、お互いを認識したとはいえ、じっとそのまま見つめあい、近づいていくのは明らかに気まずいので、私は車や自転車が来ないかを確認するふりしてキョロキョロし、もうそろそろいいか、というタイミングでおじさんの方に目をやる。
そうすると、おじさんも背中を向けて横断歩道や車に意識を向けつつ、そろそろか、というタイミングでこちらを振り返る。

そして、おもむろに顔を合わせ、「おはようございます」とニッコリ挨拶を交わすのである。

まるで、息合わせ、である。

そのタイミングがばっちり合うと、すばらしく気分が良く、その後の歩様にもテンポが生まれ、快適なウォーキングとなる。

しかし、ちょうど中学生が自転車で通りかかっておじさんがそっちに気を取られたり、滅多に車が通らない路地からワゴン車なんかが出てきて一旦足を止めたりすると、そのタイミングが微妙にずれて、何となく気まずい雰囲気が生まれる。
ちょっとぎこちなく挨拶を交わして通り過ぎるのであるが、そんな時は、何となく歩様を乱し、その回復にはしばしの時間を要するのである。

あるとき、タイミングを外して何となく不快感が伴う仲、歩きながら「こういうちっちゃなことを気にするもの同士、お互い性格が似てるんじゃないか?」などと思うに至った。
そこで、「おはようございます」の後に「いつもご苦労様です」などと言葉を追加すると、嬉しそうに「そちらも精が出ますな」などと返してくれるようになった。

これはますます似たもの同志ではないか?などと思っていると、おじちゃんから「その手に持ってるのは何キロなん?」と声をかけられ、「それぞれ1キロなんです。結構筋肉付きますよ」などと立ち止まりつつ声を交わすようになってきた。

そうして、お互いを意識をすればするほど、何となく緊張感が増し、タイミングを計るきょろきょろも明らかに挙動不審に思え、また、おっちゃんの背中にも明らかにタイミングを計る素振りが見えるようになり、お互いこの距離感が微妙になってきた。

よく見れば、子ども好きな気のいいおっちゃんである。
しかも、“大阪の中では”比較的上品と言われる地域ではあるが、大阪のおっちゃんである。

もし、今晩にでも立ち飲み屋で出会えば、一気呵成に仲良くなってしまうものと思われ、朝の挨拶に「今日も行かはんの?昨日はめっちゃ飲んどったけど大丈夫なん?」「いやいや、余裕ですよ。おっちゃんほど昨日は上機嫌でしたけど奥さんに怒られませんでした?」などが加わることは必死である。

また、その距離感を嫌悪し、ルートを変えるという手もある。しかし、過去の同様の経験から、多少の安堵感と引き換えに、ちょっとした寂しさと敗北感を手にすることも分かっている。

要は、逃げてはいけない、いや、逃げられないのである。
そこで、ここは進むしかない、と思い、腹を括った。
(「なんで、そんなちっちゃいことに執念を燃やすんだ?」とか賢明な読者は思わないのである)

すると心なしか心に余裕が芽生え、おじさんとすれ違う際も堂々と目を据えられるようになってきた。
おじさんもまた、落ち着いたようで、ふだんはハキハキとした挨拶を交わし、時には少しだけ言葉を交わす仲に定着してきた。

何となく一つ山を越えたような気がしている。
(「だから、そんなちっちゃいことを、そんな偉そうに力説する?」とか賢明な読者は思わないのである。)

さて、そういう葛藤に陥った経験を思えば、カウンセリングの中ででお客さまから「ちょっと微妙な距離の彼がいまして。付き合ってるわけではないんだけど、お互い意識し合っていて、でも、今ならまだ離れられる感じなんです。これからどうしたらいいんでしょう?」などと相談されても、あながち他人事には思えない。

私にとってそうした相談は「うん。確かに難しいですよね。近づくのも怖いし、でも、離れるのは難しいし」と深く共感できてしまうのである。

これは、あのおっちゃんとの数ヶ月に渡る葛藤の成果と言えるのではないだろうか?
学びは常にどこにでもあるものである。

・・・え?恋愛とおっちゃんとの距離感を一緒にすんなって?

ま、確かにそうなんですけれど・・・。

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