子どもから教えてもらうこと



午前中は定例ミーティングをして、その後、穏やかなとても春らしい日差しの中、家族で食事をしたり、公園で遊んだりして、まるで休日のように過ごしてしました。
いつもは寒いクレヨンハウスのテラス席も、今日はちょうどいい感じにぽかぽかしていて、桜吹雪を眺めながらお弁当・・・。
でも、二歳児同伴のため、まったり、のんびり、という感じには全然ならなくて、おにぎりを分けたり、おかずをあげては「べぇ~」と吐き出されたり、お茶をあげようとしては「いらん」とあからさまに拒否られたりする昼下がり。
隣の席に座っている6ヶ月くらいの乳児を見て「懐かしい・・・。いいなあ、あの頃は大人しくて・・・。泣き声もまだかわいくて・・・。今なんて・・・」と遠い昔(とはいえ1年半前)を夫婦で振り返ったりしました。


とはいえ、当時は当時で必死で、あたふたしていて、不安や怖れもてんこもりあって、やはりそれはそれで大変でした。
常にどこかしら不安や自信の無さを感じながら、でも、一方では慣れや安心も出てくるのが子育て。
そして、共に増えるストレスと喜び。
今ならわかる「なんで次男・次女はあんだけ放って置かれるのか?あれだけ打たれ強く育つのか?」の心理。
ここで我が家に二人目が誕生したら、きっと大抵のことにはびくともせず、かつ、深入りも深読みもせず受け入れられそうな気がしますもの。(でも、実際にできたらできたで、てんやわんやするんでしょうけど)

そういう子育てをコンビニができるよりも遥か昔から24時間年中無休でやっている“お母さん”というのは大変な職業ですね。

その一方で父親は「仕事というのは逃げ場なんじゃないか?」という猜疑心や「すまぬ、妻よ。そのストレスを一人で負わせて・・・」という罪悪感や「子どもはやっぱりママがいいんだよねえ」という無価値感、そして、「うーん、けっきょく何もできないんじゃねーか・・・」という無力感を感じ続けるものでもあるんですね。

常に全力投球している子どもと一緒にいると、自分の甘さや未熟さも否応なくあぶり出され、どうしたって自分を見つめなおさなくてはならなくなり、また、夫婦のこと、将来のこと、仕事のこと、いろんなことを真剣に考えさせられます。
そんな側面をネガティブに見れば、まさに“修行”だし、“苦行”になってしまうものなんですが、ポジティブな面で見れば間違いなく子どもは天から授かった“贈り物”で“先生”だし、(かなり小悪魔風に味付けされておりますが)“天使”なんですよね。

だから、最終的には“どう楽しんでしまうのか?”ということを身につけることが大事なのかもしれません。
(難しいことを考えても、けっきょくはそこに辿り着くのが面白いですね(笑))

子どもは海の写真を見ては「おみじゅ、おみじゅ、あちょび、あちょび」と大喜びして、沖縄で体験した話を意味不明な単語群と共にいっぱい話してくれます。
その姿はほんとうに堂々と、自信満々で、もう「はいはい、すごいねー、あんたはすごいよねー」としか言えません。

そして、そういう時に一緒に笑えたら「ああ、自分はまだ大丈夫なんだな」と思えて、安心できます。
人は何に対しても、笑えなくなったときは要注意のサイン。
僕もストレスが溜まってきたり、余裕がなくなったりすると、知らないうちに笑えなくなっていて、「ああ、まずは、自分をなんとかしなきゃな」と思うようにしています。

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