半年ぶり以上ぶりに福岡に滞在し、美しく感動的な代物に出会った話。



福岡は10数年前に初めて訪れて以来、「ここなら住んでやってもいい」と上から目線になるくらい好きな街である。
「やはり住むなら大名に近い赤坂がいいな。警固はちょっと街すぎるしな」などと朝、大濠公園界隈を散歩しながら住む場所を探ってみたりする。
ちなみに今はもう少し大人になったので平尾、高宮あたりがいいのでは?と思っている。先日紹介した博多温泉も近い場所だ。

かつてこの写真を撮ってくれた清水貴子さんは、「大阪の人は海を見たくなったときにどこに行くの?」という質問を我々夫婦に投げかけてくれた。

その時一瞬言葉に詰まり、とりあえず「若狭か淡路島の方ですかね・・・」と答えたのだが、そういう発想が自分たちにないことに夫婦共々驚かされたものだ。
「海を見に行きたいって思って出かけられるところに美しい海があるって羨ましい」のである。

正直言えば、我々は「海を見たい」と思ったら、まず浮かぶイメージは宮古島であり、南城市から眺める太平洋であり、石垣・竹富のあの海であるため、海を見に行くためには何日かの休暇と飛行機のチケットを用意しなければならない。
それが福岡の人々は「海が見たい」と思えば、車をちょっと走らせればそこに美しい玄界灘が存在しているわけで、ただただ羨ましいばかりである。
なお、余談であるが、上の写真始め、私のプロフィール写真は福岡の小戸公園にて撮影してもらったものである。

そもそも福岡は飯が美味い。かつ、酒飲みが作り上げた酒飲みの街であると私は勘繰っている。
目の前には豊かな漁場である玄界灘が広がり、後ろを振り返ればすぐそこに九州の山々が連なる。

最近地方に行くとそれぞれに豊かな漁場があるものの、そこで獲れた海産物のほとんどは地元に落ちることなく築地に向かうという。
その方が高く売れるから、という経済的理念に基づいてのことだそうだ。(北海道であがる牡蠣の95%以上が築地に行く、という話には驚かされた)

ところが、福岡近海であがる魚は地元の呑み助やグルメたちを納得させるために長浜市場に入るものがかなり多いらしい。
それだけで素晴らしい街であることが証明されているわけである。

そういうわけで、私は前職時代はもちろん、独立してからも採算をあまり考えずに福岡の出張を優先してきた。
毎年7月15日には、早朝から祇園山笠の追い山を見に行くために出張を組んでいた。
昨年は沖縄リトリートのため行けず、その前年は前の晩にとあるバーのマスターの陰謀に引っかかって寝坊して見られなかった。
それゆえ私は時々、動画を見ながらあの興奮を思い出しては感動し、涙しているほどである。

さて、そんな私が半年以上も福岡に行っていなかった。
これは異常事態である。
今から思えばなぜそんなことが起きたのか理解に苦しむ。

ちなみに年末に弾丸で福岡リトリート会場の下見に行ってきたのだが、当然そんなことで満足できるはずもない。

そこで、2月上旬、久々に広島~福岡へ行ってきた。
広島など10か月ぶりの訪問ということで、ものすごくフラストレーションが溜まっている。
しかも、地元民より「駅西の飲み屋がヤバい」と案内され、ここは天満か?と見紛う街のクオリティに圧倒された次第である。

その広島での様子。会場が狭く、親密感溢れる講演会となった。ありがたい。

翌日の福岡での講演会の様子。

さて、実は今日のコラムはセミナーの様子を伝えるための記事ではない。
最近はSNSの発達により各地に「私の動向を監視するマスター」が出現しており、福岡にも西通りにそんなアブナイ奴がいる。
私が調子にのって博多駅で「福岡に着いた~」などとアップすると、手ぐすねを引いて「到着をお待ちしておりましたよ。で、今日ちょうどヤバい酒が入ったんですよ。これとこれとこれなんですが、どれから行きますか?」などと迫って来る奴である。
ちなみにその店で飲むカクテルも酒もメシも葉巻も何でも旨い。
さらに余談であるが、絶賛増刷中の拙著「敏感すぎるあなたが7日間で自己肯定感をあげる方法」(あさ出版)の一部はこの店で執筆されている。

そのグルメなマスターに以前、「寿司が食いてえ」と言ったところ、満面の笑みで「ここが最高っすよ!毎月のように行ってるんですよー!貸切で!」と濃い顔をさらに濃くして教えてくれたのがココである。

念願叶い、予約が取れたので地元の友人と二人で訪れた。
地の魚が抜群に旨い福岡で、それをさらに旨くすべく仕事をしてる寿司となれば、どれほどの感動が待っているのだろう?と思ったのである。
私は寿司は大好きなのだが、寿司屋はそれほど好んで行く場所ではない。
アテから始まり、握りに行くと、少なくても15~20種類の皿が出て来る。そのすべてが私の口に合うことはさすがに難しく、感動の一品もあれば、私にとって残念な皿もあり、トータルで見ると「難しい」と思ってしまう。それくらい寿司というのは難しく、ある意味、日本の最高峰の料理屋と言えるだろう。
しかも、出汁が大好きで、「椀物こそがメイン料理」と位置付ける私は自然と割烹に足を向けてしまうのだ。
だから、ちょっと久しぶりの寿司屋訪問であった。

清潔で清涼な空間。私の好きな店は隅々まで磨き上げられた空間で、時に神社やお寺にいるようなピンと背中が伸びる感覚がする。そして、私はこの感覚が大好きなのであり、今から始まる芸術にワクワクが止まらなくなる。

まずはビールを。そして、あがりも一緒に。腹を温めながら始めることとしよう。

最初はアテが出て来る。どれも芸術的な逸品で、旬のものをさらに旨く仕上げた最高の状態で出してくださる。
当然酒が進むのであるが、こういう店ではピッチはさほど上がらず、かつ、酔わない。酒の管理が抜群なことに加え、料理も酒もじっくりと味わうからであろう。
この写真は出して頂いたものの一部である。雲丹などは口に入れた瞬間にとろけつつも、しっかりと旨味が引き出され、鼻の奥にずーっと香りが残る逸品である。また最後のあん肝はヤバかった。ちびりちびりやりながら、握りに移った後もずっと酒の肴として楽しませてくれた。

酒は好みを伝えると店主が20種類程度の中から好きそうなものを選んで出してくれる。その感覚はとても素晴らしく、今回頂いたお酒はどれも私の口にぴったりであり、幸せな時間をさらに増幅させてくれていた。

さて、握りである。
私は大将とあれこれと話をしながら食事をするのが大好きで、そこでたくさんのことを学ばせていただいている。
シャリの硬さをネタに合わせて変えるのはもちろん、驚いたのはネタによってワサビを付ける場所を変えることだ。
口に入れたときにどのタイミングでワサビの香りが鼻に抜けると一番おいしく感じるかを計算しているとのこと。
さらにマグロに合うようにシャリの味付けを考え、また、ちょうどマグロ(中でも中トロのヅケ)に来るタイミングでシャリがちょうどいい味になるように計算して米を炊いているらしい。
そこまで考えるのか!とその話だけで感動し、酒が1杯飲めるものだ。

計算され尽くしていると言えば、お弟子さんとのコンビネーションプレイも随所に見られた。
例えば、海老は厨房で一匹ずつ茹でられる。そして、茹で上がると同時にお弟子さんに渡され、彼が皮を剥くと、そのタイミングを見計らって大将がシャリを握り、お弟子さんから受け取ったエビを即座にシャリと合わせて客に手渡される。それはまるでサッカーのパスプレイのようなものである。
さらに、あがったばかりの穴子を素早く大将が握り、そこにお弟子さんがタイミングよく柚子を擦って穴子にかけてそのまま出される。

ここはしっかりと理論付けされ、計算され尽くされていて、その職人技にはひたすら感動してしまう。
そもそも職人好きな私としてはずーっとその美しい大将の所作に見入ってしまっていた。

後ほど知ったことであるが、この店の奥にはまだオープンしていないエリアがあるという。
それは6人くらいが入れる個室で、いずれお弟子さんが育って握りを任せられるようになったら、そこで団体さんをおもてなしするそうである。
店を構えるときからそこまで考えているところにもまた感服してしまう。

こちらも頂いた握りの一部。雲丹は置くとほぐれてしまうので手渡しで供されており、そのまま口に運ぶとすーっと溶けてなくなる仕組みになっている。中トロのヅケは代表作だけあって感動的であり、握りはほんとどれも旨く、幸せな時間であった。

まだ1時間ちょっとかなあ、と思ったら軽く2時間を過ぎていた。
最高に幸福でまた、豊かな時間であった。
こういう時間を過ごすために私は生きてるんだと思う。まさに私のライフワークの一部である。

この記事を読んで腹でお湯を沸かしているだろう妻ともいずれ訪れたい名店であるが、その前に露払いとして再訪しておくのがマナーだろう。
1度目は感動し、2度目にがっかりさせられた経験も少なくないだけに、それは重要な任務なのである。

さて、出張してもスケジュールをがちがちに入れることをせずにジムに行ったり、のんびりするための時間を作っている。
そのため、今回は久々に福岡を満喫し、改めてこの街の魅力に取りつかれたように思う。
鮨以外にも、本格的な窯焼きピザと出会ったり、旨い焼鳥にもつ鍋を頂いたり、食に関しては満足感しかない上に、やはり人がいいのか、居心地が良い。
あるバーのママに「この土地の空気が合ってるんでしょうね」と教えてもらったのだが、まさにそうなんだろう。

4月にまた訪れることは確定しているが、その後も、やはり採算などは考えずに訪れて英気を養いたいと思う。


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