例によって前振りが長くなりまして、別記事にすることにしました・・・。
「愛するってどういうことなんでしょうね?」
夫婦関係や恋愛の問題に取り組んでる方から、よく頂くご質問です。
説明するのはほんと難しいですね。
僕もそれを語るには若すぎると思うくらい恐れ多い言葉です。
まだまだ学んでいる最中ですし、これから先もこの答えを求めて試行錯誤していくんだろうと思います。
死ぬ間際になって、少しでも明解に説明できれば良いかな・・・というくらい気の長いチャレンジのつもりでいます。
ただ、ご質問を頂いたらそれにお答えするのも僕の役目ですから、その場で、分かる範囲でお伝えしようと試みます。
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「愛するってのはその表記通り“動詞”である。つまりは自分自身が選択できる行為である」
という説明はモノの本にはよく書いています。
じゃあ具体的にはどうなんだろう?と考えると、思考の渦にはまりこんでしまいます。
でも、昔、親友が言ってたんですが、
「愛って言葉を口にすると、何か心に響くものってない?」って。
なるほどー、よくは分からないけれど、何か動くよなあ・・・と思いました。
哲学好きだった彼曰く
「愛ってのは僕らがア・プリオリに知ってることなんだよ」と。
ア・プリオリというのは先天的にという意味です。
でも、それを伝えようというのは、それまた難しい。
目に見えるものではないし、また、誰かが定義し、統一された方法があるものでもないでしょう。
できるだけわかりやすいように、感じられるようにセラピーを作っていくようにしてますが、さて、うまく行くかどうか・・・僕も試行錯誤です。
ただ「愛する」という意志、意欲を持って向き合えば、怖れを乗り越えられるし、自分のプライドも、欲求も、見栄も、恥ずかしさも、すべて手放せる、捨てられるものだとは分かってきました。
これは僕なりにチャレンジしたことだから自信持っていえます。
カウンセリングで実践し、本当に生まれ変わったような方も多く知ってます。
だから、愛するって行為の説明の変わりに、「手放し」とか「プライドを捨てよう」などの方向性を提案していくことは少なくありません。
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また、「好き」とか「嫌い」とかの感情に流されるものでもないでしょう。
どんなに苦しくても、それは自分の感情だから、そこから逃れるためにする行為は何であっても「愛する」こととは言えないと思います。
子育てを必死に頑張ってる妻を見ていると、きっと愛が無かったら、子どもなんて育てられないんだろうな・・・とつくづく思います。
何かははっきりとは言えないけれど、親が自分の感情に流されてしまったら3時間ごとのミルクはあげられなかっただろうし、ぎゃーぎゃー泣き叫ぶ子どもを抱いてあやすことも出来ないでしょう。
眠い目をこする間もなく、ふらふらしながらとミルクをあげてる妻を目にすると、人ではない神々しさすら感じることもあります。
あなたが今、ここで、この文章を読めるということは、誰かは分からないけれど、あなたにきちんとミルクをあげ、泣いているあなたを抱き上げてくれた人がいるということです。
だとしたら、この文を読めるくらい大人になったということは、かつてあなたが誰かに愛されていた証拠ではないかと思うんです。
それが、例え、その後憎しみの対象となる親であったとしても。
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お客さんの中には「それしたらあかんやろう・・・」とか「そんなことしたらダメって言ったのに・・・」ということをしてしまう方ももちろんいらっしゃいます。
この一言を読んで思い切り「ドキッ」とする方もきっといるでしょうなあ・・・。
「ああ、あたしのことだー」と顔を赤らめそうな方、何人も思いつきます(笑)
でも、そこでページ閉じないでね(笑)
その時「あかんやないかー。もう知らんわ。」と言うのはとても簡単です。
でも、「ほんまにしゃあないなあ・・・(笑)。まあ、そこから何とかしていきましょうかー」と思えるのは、きっと僕なりの愛情なんだろうと勝手に思ってます。
これは「許し」とも言いますよね、きっと。
僕自身の経験でも、感情の波にさらわれたり、流されたり、あるいは、あかんと分かっててもつい・・・ということをしてしまった経験がたくさんありますし、これからだってしないとは限りません。
それに、それを言えるということは、きっと十分過ぎるほど自分を責めてるんでしょうし、また、嫌われるんじゃないか、怒られるんじゃないか、呆れられてしまうじゃないかとか、怖れも十分感じているでしょうしね。
そこをあえて突っついたらイジメになっちゃいますね。
もちろん、そこではっきりと「あかんことやで」ということも伝えることもあります。
それも僕なりの愛し方なんだろうと思います。
でも、そういうことを言うのは、とてもリスクを感じるんですよ。
僕だって嫌われたくないし、ウザイとか思われたくないですから、平和的に丸く治めてしまったほうが楽なのかもしれません。
それに僕にとってカウンセリングってのは生活の糧でもあるわけですから、なおさら。
皆さんから頂いたお金で子どものミルクやオムツが買えるわけですからね。
自ら嫌われることをして、生活の糧を失うようなことはしたくないんです。
でも、「それじゃあ、この人のためにならないよな」と思ったら、はっきり言います。
それも僕自身の判断なので、後で「果たしてそれが良かったのかどうか?」と悩むこともあるんです。
だけど、それに負けたらきっと乗り越えるものも乗り越えられないと思ったら、「嫌われるかも知れんけど・・・はっきり言おう」と覚悟して言ってます。
その覚悟ができると、通じなかったら、それはそれで仕方ないと思えます(これはきっと「手放し」といいますね)。
でも、大概のことは大丈夫ですからご安心下さい。
「あかんやん」と言ったとしても、「もう知らん」とは言いませんから。
笑って「じゃあ、そこから何とかできる方法探しましょうよ」ってことにします。
可能性は常にあります。
方法も無限にあります。
チャンスは何度も何度もやってきます。
それは僕が確信してることなので、まだまだ何とかできるってことをどんな状況になっても僕は信じているんです。
そんな風に、どんな仕事でも同じだと思いますが、カウンセリングを通じても僕なりに愛することを学んでいるんだろうと思います。
さあて、この問いにスパッと答えられる日が来るのか?
僕なりにあと数十年かけてチャレンジしていきたいと思います。
・・・なんか、難しいこと、熱く語ってしまったなあ・・・。