「動物的な、嗜好について」



最近、私も動物なんだな、と気付かされたできごとがあり、これをネタにしてみようと思い立った。
とはいえ、残念ながら、下の話ではない。そちらを一瞬期待された方には申し訳ないが、むしろ、上の話である。

9月から10月頃にかけて、私の舌が魚を求めるようになった。刺身も悪くは無いが、焼き魚や煮付けにすごく心を惹かれるようになってきたのである。
例えば、定食屋の暖簾をくぐるとしよう。
日替わり定食が「A.和風ハンバーグ定食」「B.塩鯖の煮付け定食」であったとしたら、迷うことなく「B」を選ぶ自分がいるのである。

「ついに、来たか・・・」

その欲求に気付いたとき、私はひとり、覚悟を決めたのである。


私は元々肉食人種であり、記憶にある限り、幼少の頃から、魚嫌い、肉大好き、の生活を送ってきた。
食卓に魚が並べばげんなりし、鍋の中に白身魚が入っていればハンガーストライキを起こし、肉が供されれば、仮にそれがクズ肉の塊であったとしても狂喜乱舞するほどの肉好きであった。
当然、20代の頃は、質より量であり、少々お腹を壊そうが、焼肉食べ放題店はほどんとメッカの如き聖地であった。(その結果、腹回りに少なからず脂肪を蓄えることになったのは“皮肉”である。)

しかし、私の周りの友人・知人・仲間達が、年齢を重ねるにつれて「肉よりも、最近は、魚なんだよな」と漏らすのを耳にし、私の中では「俺にも、そんな日々がやってくるのだろうか?」との不安を感じ、「いや、そうなったら、俺の青春も終わり、オヤジであることを受け入れざるを得なくなる。俺は、肉だ。」と頑なに拒否してきたのである。

ここだけの話し、そういう思想の下において、彼らを多少なりとも軽蔑してきた。
「お前らはもう、若者ではないんだ。オヤジなんだぞ。」と。

しかし、ついに、我が身にも来るべき時がやってきた、と覚悟した。

何だか「魚がの方が美味い」と感じてしまったのである。
実は数年前より「肉も出てくるけれど、その前に魚も食べてね」的な饗応には歓迎の意を示すようになっていた。魚もそれなりに美味いことは受け入れていたのである。
しかし、それはあくまで「肉の方が美味いけれど、魚だって捨てたものじゃないよね」という程度のものであり、二者択一であれば、断然、肉派だったのである。

そんな私が「肉より魚」を求め始めたのである。

その衝撃は、数年前、若干頭皮の活力に不安を感じ始めた頃のものを上回っている。

外はまだ夏の余韻を残す季節ではあったが、徐々に高くなる青空を見つめながら「ついに、来たか・・・」と覚悟を決めざるを得なかった。

以来、食事はあっさり派。外食の際には「魚が食えるところならばどこでも」というリクエストを出し、ひたすら、アジの塩焼きを無言で突く私が出現した。

数ヶ月前の私から思えば、信じられぬ暴挙であり、伊達や酔狂でなければ、到底受け入れられぬ図であったろうと思われる。

実は事件はそれだけではなかった。

私は9月の6日に齢を重ねるのだが、その日から数日を経て、とある顕著な変化が私の心身に訪れることとなった。

「日本酒が、飲みてぇ」

心が求めるのである、体が喜ぶのである。

もちろん、それまでも日本酒は私の好きな酒の一つであり、毎月のように通っている横浜や博多の店では、ひたすら日本酒を浴びるように呑んでいるのも事実である。

とはいえ、それはあくまで、その店のおでんや蕎麦に合わせるのにもっとも適した酒として存在しており、その店を一歩出れば、私はモルトやワイン、カクテルを求めて次なる店へと足を運んでいたのである。

よって、自宅で飲む酒は、まずはビール、そして、その後はワインなり、モルト・ウィスキーなり、ハイボールと相場は決まっていた。
そもそも我が家には、泡盛や焼酎はあっても、料理酒以外の日本酒は用意されてはいなかったのである。

それが、寝酒と称して日本酒を飲むようになり、自然と、行く先々の店で日本酒をオーダーするようになった。
旧知の飲み友達に「根本さん、今度はどんな店がいいですか?」と希望を聞かれたときに、「日本酒をしっぽり飲めるところがええなあ」と素直に答えたところ、「え?日本酒ですか?それはまた予想外のところで。わ、分かりました。探しますわ」と慌てられたことも記憶に新しい。

実は、このコラムを書く傍らにも、とある特別純米酒が冷やの状態でお猪口と共に置かれており、書きあがりを今か今かと待ちわびているのである。

しかし、同時に、その我が身の変化に、少々複雑な思いを抱いている。
私の父も日本酒を愛する人物であったのだが、その影響か、「日本酒=オヤジの酒」と思い込んでいるのである。

よって、自分が日本酒を“主に”嗜好するようになり、「ついに、齢38歳を得て、完全にオヤジと化したか」と悟りの境地に至ろうとしていたのである。

「ええ?いまさら?」と思われた読者は多いかと思われるが、私はそれでも「実は若いんだな」ということを心の奥で密かに念じていたのである。
外見は実年齢を5歳は上回り、趣味嗜好もだいぶオヤジ化している今日この頃ではあるが、しかし、男としてはまだまだ若く、現役であることをどこかで誇りとしていた(もちろん、その根拠は曖昧なのだが)

しかし、この現実は私を打ちのめし、「もう、お前は若くは無いんだ」という事実を突きつけられたに等しかったのである。

その落胆は、皆さんの想像を遥かに凌駕すると思っていただいてよい。

しかし、である。神は私を見捨ててはいなかったのである。

焼き魚や煮魚の美味さに嬉々として目覚め、日々、居酒屋では独断と偏見で魚と日本酒のオーダーを繰り返していた頃、とある事実に気がついたのである。

「ん?そういや、数年前にも同じことがあったぞ」

実は、数年前、突如焼き魚に目覚め、寝ても覚めても魚を求めて右往左往していた時期があった。よくよく思えば、昨年も、この時期は秋刀魚が食いてえ、鯖が旨い、とほざいていたではないか。
そして、わざわざネットを駆使して焼き魚を食える店を検索しては出かけていたではないか。
自らスーパーで魚を買ってきては、嫁に「焼いてくれい」と頼んでいたではないか。

そして、夏から秋の涼しくなるこの時期。「お正月みたい」と笑いながら、嫁と日本酒をよく飲んでいたではないか。

その事実に気付いたとき、安堵すると同時に(なんで?笑)、意外と自分が季節に踊らされていることを思い知ったのである。

よくよく思えば、私の嗜好は季節変動が激しいのである。
秋からクリスマス前にかけては、日本酒を中心とした“和”を好む。
魚もそうだし、煮物を求めるようになり、食材も山菜などもよく好む。
そうすると、当然、一杯目はビールで良いが、福島県人を父に持つ身としては、二杯目からは焼酎ではなく、日本酒が恋しくなる。

しかし、クリスマスに向かう12月頃より若干嗜好が洋風になり、それまではちょっと遠慮していたイタリアンやフレンチなどにも意識が向くようになる。
明らかにクリスマスの風潮に流されており、よって酒もワインを中心に、女の子と楽しく呑める酒や料理を自然と求め始めるようである。

ところが、年が明ける頃になれば日本の伝統行事であるおせち料理が待っている。よって、“おとそ”としての日本酒を求めるのは自然の流れであり、そして、そのまま冬の間は鍋料理などホクホクした料理が続くので、冷たいビールに、ぬる燗などの日本酒が恋しくなるのである。

そして、春先からは一気に洋風に趣を変えてワインを中心に、食後酒としてのモルト、バーに行けば各種カクテルを欲するようになる。
特に、スパークリングワインは時にビールを凌いで“一杯目”の栄誉に預かることも少なくなく、むしろ、「甘い」との印象を残すビールは敬遠されがちになるのが私の夏の特徴である。

そして、さらに暑い季節ともなれば、スパークリングワインはもちろん、沖縄に魂を飛ばせる泡盛や、ロックが旨い焼酎へと嗜好は広がり、そして、秋口から再び日本酒の封を切らせることとなるのである。

しかし、何とも季節感のある話である。
あるものは花を語り、あるものは星を語り、しかし、私は酒を語る。しかも、根拠のない、あくまで気分的な領域を決して出ない。

夏になれば冷房を、冬になれば暖房を入れる環境にあって、また、都市生活者として自然とのふれあいは極端に少ない。
しかし、そんな中でも、ちゃんと温度変化だけでない変化を感じ取っていることに気付いた。

季節変動。

年中同じものを、同じような形で頂くのはつまらない。
時に日本酒、時に魚、でも、ある時期は同じ醸造酒でもワインであり、肉を選ぶ。
そんな動物的な変化を感じられるのはいいことだと思っている。

自分が必要以上に「オヤジ」であることを怖れており、しかし、その一方では、オヤジを楽しんでもいることに気がついた。

ともわれ、傍に控える純米酒が汗をかいてきているので、この辺で終わりたいと思う。
少なくても今の時期、日本酒はめちゃくちゃ旨い。
そして、その酔い心地もまた、ストレスを忘れさせてくれるには十分なほどの質感を抱いている。

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