珍しく予定のない東京の夜を昭和のオヤジとして過ごしてみた。



東京出張中は会食やら個人的な好みやら打ち合わせやらスタッフを労う会などの予定が入っていて、いつも誰かと晩飯を共にしているものである。
どうせ食事に行くなら旨いものを食いたいと事前にお店も押さえている。
この日もお気に入りの寿司屋にお邪魔する予定であったがこのご時世である。先方から申し訳なさそうに断りの連絡を頂戴していた。
また、その予約していた時間までに入っていた予定も、これも先方の都合によりリスケになっていた。

結果、いつぶりだろう?夜の予定がない1日が誕生することとなった。

通常であれば、東新宿のなじみの和食屋に飛んでいくのだが、今日は少し変わったことをしてみたいと思い、前に1、2度訪れたことのある地元密着型の居酒屋の暖簾をくぐることとした。
フリーでお店に入るのはほんとうに久しぶりのことである。

昭和の香りがするその店に入ると客は誰もいない。
無口だが人当たりの良い店主が出迎えてくれてカウンターの隅に案内される。
「ビールは何がありますか?」とつい癖で聞いてしまう。最近は銘柄にもいろいろこだわるようになってしまった。
「サッポロの生か瓶になります」と店主。
それなら文句はない。まずは生ビールをオーダーし、看板のおすすめメニューと印刷された定番メニューに目を走らせる。

めちゃくちゃお腹が空いているわけではないが、ちょっとつまみたい気分であったので、適当に目に留まったものを店主にお願いする。
アテとしてはわさび葉のお浸しがほど良いだろう。
納豆という文字が目に留まり、ああ、出張先ではあまり口にできないから、と納豆オムレツを追加。
さらにメインとして穴子が良さげだったので白焼きにしてもらうか、天ぷらが良いかとしばし悩み後者にしてみた。

ビールをちびちびやっていると「お通しです」と小皿が運ばれてくる。
穴子の煮たものと菜っ葉のお浸しだ。

「お通しです」と言われると、ああ、東京に来たな、と感じる。
関西ではそれを「突き出し」と言うからだ。(厳密には意味が若干異なるようだが)
しかし、こう頻繁に関東と関西を行き来し、外食の頻度は圧倒的に関東が多いとなると、もはやどっちがどっちなのか分からなくなってしまう。
けど、やっぱり「突き出し」という言葉の方がしっくりくるのでやはり私は関西に染まっているのだろう。
そもそも味覚は完全に関西風を好む。

刻んだノリがたっぷりかかったワサビ葉が鼻をつーんとさせている間に納豆オムレツが届いた。
いきなり洋風だ。これでご飯があればぶっかけてかき混ぜてかき込みたいところだ。
ビールのアテにもほど良いので、スマホでお弟子たちのブログを眺めつつ、口に運ぶ。
もちろん、納豆オムレツはすぐに崩れるので箸でかきこむことになる。少々下品だがこういう店ではたぶんこれが正当だ。

ちびちびビールを飲んで、ワサビの刺激を喜び、納豆と卵のコンビニ癒されているうちに静かに時間が流れていく。

私はカウンターに座れば店主とあれこれ話をし、誰かと食事に行けば当然あれこれ話題は尽きない。
こうして一人、カウンターで手酌のビールを飲みながら過ごす時間は案外貴重である。

そんなときふとこの店がとても心地よいことに気が付いた。
とても落ち着いてしんみりといい雰囲気である。

あ、そうか。
この店、BGMがないんだ。

テレビはついていてニュースらしきものをやっているが音は絞られている。
他に客がいないことも私にとっては幸いだ。
店主は無口でもくもくと仕事をしている。

その静けさにとても癒された。
こういう空間が欲しかったんだな、と気付く。

ちょうど納豆を片付けたあたりに穴子天が運ばれてきた。タイミングも計ったようにばっちりだ。
1人前にしてはちょっと量が多いが、塩とつゆでいただくにはほど良い塩梅か。
やはり、スマホを時折眺めつつ、ビールを手酌し、穴子を口に運ぶ。
めちゃくちゃ美味い!というわけではないけれど、でも、この空気にまことにころあいの風味である。

すっかり癒されてお会計をする。
気が付けば女将らしき方が出て来られ、かつ、テーブル席に仕事終わりのサラリーマンたちが座っている。

「今週もお疲れ様ー!」と乾杯する声を聞いて「そっか、世の中は金曜日か。明日は休みか」と改めて気づく。
私はむしろ土日が仕事だから金曜日が仕事の終わりという感覚がない。
その新鮮な驚きを胸に店を後にした。
とてもよい時間を、しかもとても安く提供していただいた。

思ったよりも量が多くてお腹が膨れている。
さてどうしようかと思う間もなく、風呂にでも入ろうか?と思い付いた。
なんせ、すぐそこに銭湯があるからだ。

久々にこの暖簾を潜り、古びた昭和の香りしかしない銭湯に入る。

番台のオヤジに「タオルもお願いします。」と言って風呂代を渡す。ここはタオルを無料で貸してくれるので手ぶらで気軽に行けるのだ。

カバンが大きすぎて入らないのでオヤジに預かってもらい、そそくさと服を脱いで風呂場に入る。

ここのお湯は熱い。
昭和のオヤジたちからは「東京の銭湯はすっかりぬるくなっちまった」という愚痴をよく耳にするが、ここのお湯はちゃんと熱い。

熱い湯に入るときは何度も掛け湯をするとよいことはさらに熱い島根の温泉津温泉の常連オヤジから学んでいる。

体を洗ってからものの数分で体が真っ赤になるほどの湯に浸かる。
熱い、が、気持ちいい。
しかし、長湯は禁物だ。

数度湯に浸かれば十分だ。ちょいと足りないくらいがほどよい。

レトロな脱衣所からは小さいけれど池が見える。昭和の銭湯の雰囲気を思いきり吸い込んでずいぶんと癒された。

預かってくれたオヤジに感謝を伝えてバッグを背負う。
外に出れば大阪に比べて夕暮れの早い東京でもまだ薄明るい。
このままホテルに帰還するのは少し早いな、と思いつつ、はてさてどうしようか?と悩んでみる。
通りかかる人から見れば風呂上がりに何を飲もうか自販機の前で佇んでるオヤジにしか見えないはずだ。


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