そりゃあもう相変わらず濃厚すぎて胸焼けしかしない愛野ひとな記事。
とはいえ、きっとこのセリフを言いそうだな、確実に思っていそうだな、という人の顔が次々と浮かぶということは私の読者ならびにクライアント氏においては「基本形」なのかもしれない。
「大嫌い」になるくらい「大好き」で、「大嫌い」ではとどまらなくなって「死んでほしい」とまで言い切る女の情。というか、情念。
たぶん、その続きは「死んだら確実に化けて出てやる」なのかもしれない。
でも、お互い死んじゃったら意味がないから生霊を飛ばすのだろうか。
きっと愛野ひとはその連綿と続く武勇伝において幾度となくこの呪いを飛ばしているのだろうと思う。
本人は3回というが、その3人の男たちのその後が気になるところである。
その思いを彼女は内観しつつ、クライアントさんたちの思いを深掘りしつつ、その裏にある心理に迫っていく。
すると、そこにある一つの深層が浮かび上がってくる。
『大好きになりたかったのに、それができない自分を、責めている』
責めているのは「自分自身」。
その思いが転じて相手を責めたくなる。
「死んでほしい」と思うほどに。
つまり「死ぬほど、愛している」のだ。
それは潔いほどの愛の姿で、不思議とすがすがしさも伴っている。
うだるような真夏の日差しの中に流れてくる涼しい風のように。
そして、そこまで命がけで愛することを望む人の才能が提示される。
おそらく誰も異論はあるまい。
『愛しすぎてしまうから苦しい。けれど、それくらい一生懸命愛するあなたは美しい。』
彼女は常にそんなメッセージを発している。
今回もまたその濃密で濃厚な愛の物語が語られている。
ぜひ、胃腸の調子が良いときに読んでいただければと思う。
*
彼女の書く文章はあまりに情熱的で火傷するとよく言われる。
その熱さゆえに時に鋼の扉で自分を守っている人の心にも突き刺さるパワーを見せる。
しかし、ふだんの彼女、生身の愛野ひとはそのような思いを持っているようには見せない。
真夏の湘南海岸よりも、熱風が吹き荒れる都内よりも、軽井沢の森がよく似合う気がする。
話し方もおっとりして、どちらかと言えば何不自由なく育てられたお嬢様にも見えなくもない。
しかし、その生い立ちにしても、恋の戦歴にしても、とても軽井沢の静かな別荘地で朝を過ごしているようには思えないだろう。
むしろ、その近くの浅間山のマグマの方が彼女を形容するにはふさわしい。
そのギャップがどこから出てくるのか、私にもいささか不思議であり、研究者としての興味も引き立てられている。
おそらく個人やグループのセッションで彼女と対面した人は同じような思いを抱くだろう。
人は見かけによらぬものと言うが、まさにそれを地で行っているのが彼女なのである。
とにかく胃薬を用意できたら彼女の内面を覗いてみてほしい。
もしかしたらそこに「自分」を発見するかもしれないからだ。