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罪悪感から自分を解き放つときに有効な「許し」の方法をご紹介します。
また、その際によく出てくる「自分を許せない理由」にも触れてみました。
「罪を憎んで、人を憎まず」がその背景にはあります。
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罪悪感本が早速増刷の運びになったと聞いて素直に嬉しい!という気持ちと、まだまだこれから!という気持ちが入り乱れているので、今日も罪悪感の話をしたいと思います(笑)
「自分を許す(ゆるす)」ということについてお話してみたいと思います。
罪悪感さえなければ人は簡単に幸せになってしまう、というのは本書の中でも紹介した、あるセラピストの名言なんですけれど、私も非常に同意してる言葉です。
それくらい罪悪感というのは自分のことを罰し、傷つけ、幸せにしないような思考回路、行動パターン、さらには感情パターンすらも作り出すものなのですが、かといって悪者か?というと、「そういうわけでもない」というのがこの本の主題です。
「罪悪感なんてどうせなくならないもんだから、上手に付き合っていけばええんちゃう?」という感じのゆるい付き合い方がいいんじゃないかと20年近くカウンセラーをしてきて思うわけです。
ただ、過剰な罪悪感は自分の首を絞めるわけで、それを「日常生活に支障のない程度に減らす」ということは大切なことだと思ってます。
いわば、持病と付き合うのと同じような感じですね。
その「罪悪感を減らす」ということに役立つのが「許し」です。
「愛をもって許す」という話をこの本の中ではたくさん事例を挙げて紹介させてもらってるわけですが(それで読者の涙腺を崩壊させようと著者は悪だくみをしてるらしいのですが)、その「愛をもって許す」の第一弾は「理解」だと思ってます。
私は特に「感情的理解」と読んで、「頭で理解する(思考的理解)」とは別に扱っています。
「そういう状況ならば、そうなっちゃうのも仕方あるまい」と感情的に腑に落ちることを言います。
そして、この感情的理解ができると、許しは一気に加速し、重たい罪悪感から解放されます。
ちなみに、この理解は、他人を許す際にもとても有効で、「本気の手放しワーク」の中でも採り入れているテーマです。
とはいえ、自分を許すことは、他人を許すよりもはるかに難しいものです。
だから、主観的に取り組むとたちまち感情(すなわち、罪悪感)の強い抵抗にあってとん挫します。
だから、ちょっと客観的に、言い換えると、自分軸で、取り組むことが必要だと思っています。
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前置きが長くなりましたが、「自分を許す」ために「理解する」とはどのようなことなのでしょうか?
先ほど紹介した「そういう状況ならば、そうなっちゃうのも仕方あるまい」と捉えることであり、「そうならざるをえなくて、そうなった」と思えることです。
例えば、あなたが何かの折に誰かを傷つけるような発言をしてしまったとしましょう。
あなたはそのことに罪悪感を覚え、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
「あの時はひどいこと言ってごめん」と謝って、相手も「うん、いいよ」と許してくれたのですが、気分はあまり晴れません。
その後も、なぜあんなことを言ってしまったのか?なぜ、優しい言葉をかけてあげられなかったのか?と自省し、それと同時に、自分を責め続けていました。
これはとてもシンプルでよくある話かもしれません。
罪悪感に捉われているときは自分を責める、否定する、罰することに忙しく、自分を許そうなんて発想は生まれません。
むしろ「許してはいけない」と自分を牢屋に放り込むようなことをよくしてしまうものです。
「罪を憎んで、人を憎まず」という言葉をご存知ですよね?
それを思い出して頂きたいのです。
自分自身を罰していても実は誰も幸せになりません。
あなたの周りの人はあなたが罪悪感で自分を責めていることを喜んでくれるでしょうか?
おそらく、世界中で一番自分を許せないのはあなた自身です。
あなた以上に自分を責めている人はいないのです。
だから、そこで「その自分を許してみよう」という話になっていくのです。
「なぜ、そんな傷つけるような発言をしてしまったのだろうか?」
理解の入口はこの質問から始まります。
できるだけ客観的に、そのシーンを思い浮かべてみましょう。
その時、自分はどんな心理状態だったのか?どんな状況だったのか?を思い出してみます。
仕事に追われ、体調も不完全で、イライラしていたのかもしれません。
その人に対して何か怒りや嫉妬を感じていたのかもしれません。
心理的に全然余裕のない状況だったのかもしれません。
そういう状況であったならば、そんな態度を採ってしまうのは仕方のないことではないでしょうか?
もし、他の人が同じ状況にいるならば、同じようなことをしてしまうんじゃないでしょうか?
また、少し見方を変えれば、あなたの友人が同じことをしてしまって、自分をひどく責めているとするならば、あなたはその友人に何て言葉をかけるでしょうか?
これらの質問や疑問がその罪悪感からあなたを解放するカギとなります。
ぜひ、「確かになあ、そうなっちゃうのはしょうがないよなあ」と腑に落ちるまで、その状況を「理解」しようとしてみてください。
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さて、この「自分を許す」ということを難しくさせるものに、次のようなものがあります。
まずは「正しさの罠」です。
「どんな状況であったとしても、他人にそんなひどいことを言うのは間違っている」という厳しい裁判官があなたの心の中にいるわけです。
正しいか間違っているか、良いか悪いか、を常に判断する裁判官です。
それに対して「許し」(愛、と言い換えてもいいです)は、このように答えるでしょう。
「人間なんだから、そういうときもあるわなあ」と。
つまり、正しさを手放しましょう、ということです。
「やってしまったことは確かによくないことだし、相手に謝罪することも必要なことだし、反省して繰り返さないようにしたいところだけれど、でも、まあ、しょうがないよね、全然余裕がなかったんだしね。」という心を持つことです。
実は、罪悪感によって「なんてひどいことをしたんだ!いかなる言い訳も通用せん!」と厳しく自分を罰することは、実は再犯を起こしやすいんです。
だって人は「禁止されたものを欲しくなる」という心理があるんですもの。
皆さんも「やっちゃダメ」と言われると「やりたくなる」経験をしてませんか?
自分を許す方が、正しさによって自分を罰するよりも、同じ過ちを繰り返すことは少なくなるのです。
また別の難関は「比較の罠」です。
「もしAさんみたいに心の広い人だったら、あんな態度は取らなかっただろう」という風に思うことです。
もちろん、具体的に「Aさん」が思い浮かばなくても構いません。
要するに、誰かと比べて自分はおかしい、ということを思わせるのが「比較の罠」です。
これもまさに「自分を責めるために自らが演出した理由」でして、この罠に引っかかると、延々自分よりも心の広い人を想定して自分を責めることを繰り返してしまいます。
それって苦しいですよね。
「私は私、人は人」。
私のブログの読者ならばきっと「ああ、またこれか」と思われる「自分軸」の合言葉です。
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要するに「自分を許す」ということについては「自分軸」と「自己肯定感」がとっても大切であり、また、逆に「自分を許す」ということによって自分軸を確立し、自己肯定感をあげる効果もあるのです。
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さて、おそらく読者の皆さまは「この例みたいなケースだったら簡単に自分を許せるけど、私が犯した罪はそんな簡単なものじゃねえ」と思ってらっしゃることと思います(笑)
そう、それがまさに「自分を許したくない罪悪感が発する言葉」であることをぜひ認識してみて欲しいわけです。
だから、自分軸を確立して客観的に自分を見ようとする試みが「許し」にとってはとても大切なんですよね。
最後に本の中で紹介した「他人」の例をコピペしますので、良かったらお読みください。
自分自身の状況においても、こんな風に寄り添い、理解することができれば、罪悪感から解放され、あなたも自分を許し、自由を得ることができるはずです。
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あるときバツイチの女性がセッションにお越しになりました。
離婚の原因は自分の浮気で、それを夫の咎められたことが発端でした。
話を聞くと、彼女の両親も彼女が幼い頃に離婚していて、女手一人で育てられていました。母親は昼も夜も必死に働いて彼女を育ててくれたのですが、家には誰もいない時間が長く、ずっと寂しい思いをしながら大人になっていました。
そして、20歳の頃に10歳上の彼と結婚したのですが、その彼は出張が多く、仕事が忙しい人でした。なかなか子どもができず、彼女は仕事から帰ってくると一人で夜を過ごしていました。
彼に寂しさを訴えても「仕事なんだから仕方ないだろ?我慢しろ」と言われるだけで、心は全く満たされなかったのです。
そんな時に自分に優しくしてくれる男性と出会い、急激に心が惹かれていきました。男女の関係になるのにそれほど時間はかかりませんでした。しかし、その彼も家庭がある人で、やはり寂しい思いを彼女はすることになるのです。
彼女は自分がしてしまったこと、していることに対して少なくない罪悪感を抱いていました。
「こんな私は幸せになっていいのでしょうか?」と問いかけます。おそらく、自分自身にも何度も何度も問いかけているでしょう。
「その寂しさゆえに浮気に走ってしまったとするならば、そこに罪はないんじゃないでしょうか?」と私は言いました。したことは旦那さんを裏切ることだったかもしれませんが、そうせざるを得ない事情が十分あるように思えるのです。つまり、そうならざるを得なかっただけなのです。
そして、彼女はホッと息をつき、「すぐにはその言葉は受け取れませんが、なぜか心がすーっと軽くなりました。」と言ってくださいました。そして、私はその寂しさの原因となる、子ども時代の話を伺うことにしました。
幼い子供が夜、一人でお母さんを待つのはどんな気持ちだったでしょうか?
雷が鳴ったり、強い風が吹いて窓がガタガタ鳴る日はどんな思いで過ごしたのでしょう?
ご飯は用意されていましたが、毎晩一人で食べるご飯はどんな味がしたでしょうか?
そして、お母さんが帰って来るのをただただ待つのはどんな気持ちだったでしょう?
彼女は大人になって結婚してからも、子ども時代と同じ体験を繰り返します。
もしかすると、子ども時代のあの寂しさを、旦那さんを待ちながら思い出す日もあったかもしれません。
もちろん、大人ですから子どもの頃とは感じ方は違うでしょう。しかし、家族で仲良く道を歩いている姿を見たり、他の家の明るい窓を見たりしたときに、もしかしたら胸が締め付けられるような思いをしていたのかもしれません。
そんなときに、自分に寄り添ってくれる人が現れたとしたら、いけないことと分かっていても、止められるものではないんじゃないかと私は思うのです。
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正しさを手放し、感情的に理解しようと思えば、彼女のしたことも「ま、しゃあないよねー」と言えるようになるんじゃないかと思います。
そして、それはあなた自身にも言えることではないかと思うのです。
出版社: ディスカヴァー・トゥエンティワン
1,512円(1,400円+税)