ライフワークを生きようとするときに出てくる「慢性的な問題」について。



リトリートセミナーの参加者向けにライフワークセミナー(宿泊付)というセミナーをしていて、昨日でちょうど1年が過ぎました。
ライフワークの実現には3年とかかかると思っているので、その後のフォローとしてネット会議システムのzoomを使ってグループコンサルを月一でやってるんです。

そこでどのようにライフワークを生きるか?生きられるか?というテーマを扱うのですが、昨日のグループコンサルで出てきたテーマが「慢性的な問題」というものです。

これはどなたにも当てはまるし、当然、私自身にもあるものなのでシェアしてみたいと思います。

この慢性的な問題というのは長年当たり前のように心の中に存在していて、何かの拍子にふと出てきて同じパターンを繰り返すもので、「また、こいつか」と半ば辟易してしまうようなものです。
ある人はそれが出てくるとウンザリとし、ある人はもう諦めているし、ある人はなるべく見ないように押し入れの奥に仕舞い込みます。

たとえば、「いい人でいなきゃいけない。みんなの期待に応えなければいけない」というマインドです。
これは私の中にもずっとありました。過去形にしましたけど未だに残ってると実感するときもあります。

このマインドを持つといつも周りの目を気にしながら、いい人のポジションをとっていきます。
上司の言うことを素直に聞く、習い事の先生の話をうんうんって聞く、そうすると周りの人はその人に多くを期待します。
そして、いつしか容量オーバーを起こしていっぱいいっぱいになります。
そして、逃げ出したり、つぶれたり、嫌になったりして次の場所に移ります。
しかし、そこでも同じように頑張りすぎて同じことを繰り返してしまうのです。

またある人は「最高(成功)を受け取ってはいけない」という罪悪感ベースの思い込みを持っています。
そうすると仕事がまさに成功しそうになったとき、あるいは、素晴らしいパートナーシップがまさに手に入りそうになったときに、それを潰しにかかります。
そこで罪悪感も上積みしつつ、次の場所に移ります。

そんな中でも強烈に内面に存在するのが「何かしなくては愛されない」というもので、裏を返せば「何もしなくても、ただ存在するだけで愛されるなんてことはあり得ない」という圧倒的な「無価値感」です。

つまり、「私なんて何も価値がない。だから、人のために犠牲をしなければいけない」と思い込んでいるのです。

実際のところ私たちは「誰かの期待に応える(失望させない)」「才能を発揮する」「誰かを喜ばせる」「与えられた役割をきちんとこなす」ことによって、自分に価値があると思い込んでいます。

これにより私たちは他人に対して「こんだけやったよ!」と承認を求めますし(承認欲求)、「働かざる者食うべからず」の概念が生まれるし、他者に対する不満が次々でてきます。
また、「こんなにも頑張ってるのになぜ楽にならないのだ」という葛藤にも苛まれることでしょう。

それから病気やケガをして動けなくなったとき、そうでなくても、無気力や燃え尽き症候群になったときに「私なんていなくてもいい」とか「みんなに迷惑ばかりかけて」と思うようになるのです。

ほんとうは逆でこの強烈な無価値感があるからこそ、病気やケガ、無力感などを引き寄せているのですけれど。

つまり、何もできない自分は愛されてはいけない、などと思い込んで補償行為や犠牲をしまくり、疲弊してしまうのです。

こうした慢性的な問題とは付き合いもそこそこ長いので日常的には「仮面」をかぶってやり過ごすことができます。
その結果、ある程度の成功を納めることも可能です。
器用な人ほどこの技に長けているので、何となくやり過ごしながら幸せを享受することもできます。

しかし、ほんとうのところは知っています。
何か違和感があり、自分に嘘をついているような、そして、どこかに満足し切れていない自分がいることを、さらには、埋められない心の穴の存在を。

そんなときにより自分らしく生きようとする、すなわち、ライフワークに意識を向けたとき、この問題を無視する訳にはいかなくなるのです。

だから、こうした慢性的な問題が表面化することはプロセスとしてはものすごく順調であり、ほんとうに自分の人生を生きることにコミットした証でめでたいことなのですが、感情的にはウンザリしてしまいます。

何十年も片付けられなかった押し入れの中を整理するようなものですから当然ですね。
「引っ越しする(=ライフワークを生きる)くらいなら、家を燃やしちゃいたい!」と思ってしまいそうです。

だから、「まあ、それは見なかったことにして・・・」と再びやり過ごそうとします。
そして、長年培った技術により、何となくやり過ごすことも不可能ではありません。

この慢性的な問題の発端は心理学的に見れば親子関係にあり、そこから派生した学校などでの社会生活にあることは言うまでもありません。
子ども時代に親子関係や学校で身に着けた「処世術」こそが仮面となり、その仮面の裏に慢性的な問題が蓄積していきます。

だから、この慢性的な問題が存在する裏には「そうしなければ生き残れなかった私」がいるのです。

ヒステリックな親の顔色を伺い、その意図を汲んで動かなければ家庭内で生活できなかったわけですし、ほんとうはお父さんのことが大好きなのに、お母さんに気を使ってその気持ちを封印しなければいけなかったわけですし、いい子になってクラスをまとめなければ先生や同級生から必要とされなかったわけです。

本来の自分を犠牲にして(=慢性的な問題を作り)、その環境の中で仮面をつけて生き残ってきたのです。

だから、その慢性的な問題と向き合うと、信じられないくらい強い自己嫌悪と出会うものですし、強烈な怖れの感情(そんな自分でいたらみんなから見捨てられる、嫌われる等)が蘇ってくるものです。

では、その慢性的な問題とどう向き合えばいいのか?どうしたらそれを手放すことができるのか?

これがまた大変難しい課題です。
必要があって押し入れに隠していたものを整理するわけですから、気力もあまり湧きません。
ウンザリし、辟易し、見たくもないわけですから当然です。

だから、まずは慢性的な問題と向き合う(乗り越える)モチベーションが必要です。

そのひとつがライフワークが生み出す「ワクワク感」です。
ときめき、ドキドキ、ワクワク、魅力的、そんな素晴らしい感情がモチベーションを作ってくれます。

ここではライフワーク・ストーリーを何度も何度も描き直し、ほんとうに自分がワクワクしてときめく人生をデザインしていくことが役立ちます。

こんな風に生きたい!という希望がその困難な課題に立ち向かわせてくれるのです。

そして、そのワクワクは自然と湧き上がるものですが、そこに至るには「好き」という感情を追求していくことです。

自分が好きなものに徹底的に素直になるんです。

裏を返すと「嫌い」や「イヤ」に素直になることとも言えます。
だから、「もうこんな生き方はいやだー!!!」と強く思うことが、そのモチベーションをあげることにも役立ちます。

自分の好きと嫌いに徹底的にこだわること。
そこでは他人の目は一切遮断してしまい、とことんわがままになってみます。

そうして、慢性的な問題と向き合うエネルギーを作ることができます。

とはいえ、この好き嫌いにこだわるだけで、慢性的な問題があっさり吹き飛んでしまうこともあります。
「なんか、人にどう思われるかなんてどうでもよくなっちゃった」というわけです。

それでも残っている問題に対しては「許し」という手法をよく使います。
許しは「愛する」ことの一つの表現で、両親はじめ、多くの人たちに感謝を示し、愛を感じることです。

許しっていうと大仰な気もしますが、これをワークとしてひとまとめにしちゃえば「今まで自分に関わってくれた人たちに感謝する」になります。

そうすると単純な気がしませんか?

そして、許しのゴールは「自分を許す」です。

自分自身に感謝するのです。
私が私でよかった!と自然と思えるように。

これは最高の自己肯定感と言えるでしょう。

この慢性的な問題を深く深く掘り下げていくと、どんどん怪しい世界に入って行きます。
一般的にはこの感謝を使うだけでも相当の効果がありますが、ライフワークを生きていくと、究極、この意識を許す(受け入れる、知る、気付く)ことになります。

それは「私が神である」という“気付き”です。

さあ、いきなり宗教になりましたね!(笑)

自分自身が神であり、宇宙そのものであり、私自身が創造主である、という“気付き”です。
悟りと言ってもいいんですけどね。

スピリチュアルな世界であれば、神とつながる、宇宙とつながる、という話がよく出てくるのですが、それと同じと思ってもいいでしょう。

でも、ポイントは“気付き”である、ということ。

そう思い込んだり、知識として吸収したりするのではなく、ただ感じることです。

私は神の一部であり、神の子である、という実感です。

そうすると、先ほども少し触れましたが、処世術を身に着けることによって生まれた慢性的な問題は実のところ「愛」が作っていることにも気付きます。

愛から、そういう人生を今まで生きて来た、ということ。
これは他者愛も含まれますが、自己愛そのものです。

ライフワークを生きるということは、自分らしい人生を生きるということ。
それは自分の本質に素直に生きるということであり、すなわち、自分自身を愛するということ。
その自分は神そのものであり、自分は神の愛の元で生きているということ。

それは絶対的な安心感をもたらします。

それにより「神を裏切ってしまった」という罪悪感を許すことができ、ただ存在しているだけで許されているし、愛されているという実感を持つことができます。

さらに、私が神であり、愛そのものであるという気付きが社会に投影されるとするならば、みんなが神であり、愛であるということを感じることができます。

そのとき、罪悪感に続き、孤独感も心の中には存在し得なくなります。

そして、私たちは絶対的な安心感を常に感じることができなくなり、内外に平和がもたらされることになるのです。

とはいえ、そんな絶対的な安心感と平和を受け取ってしまったら生きてる意味がなくなるし、面白くないでしょ?

ということで、私たちは罪悪感、孤独感、無価値感等の“制限(ルール)”を作り、この人間界を楽しもうとしているわけですから、残念ながら常にその状態でいることは難しいと思います。
だって、ディズニーランドに遊びに行ってアトラクションを何一つ体験しないなんてこと、ないでしょう?
怖いと思ってもジェットコースターに並んでしまうように、自分が神であると気付いたとしても、やはり思い通りにいかない仕事、なかなかうまく行かない恋を選んでしまうものなのです。

この記事も参考になると思います。
https://ameblo.jp/rikazou3/entry-12426485574.html

そんなライフワークを見つけてストーリーをデザインする本

「つい「他人軸」になるあなたが7日間で自分らしい生き方を見つける方法」(あさ出版)

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