(続)家族の5つの役割~役割は担わない方がいいのでは?また、役割が欠けたときはどうなるの?~



先日好評を頂いた記事に対するフォローです。
たまには根本さんも真面目に論理的な話をするんだぞ!ということを示すために酔った勢いで書き上げてみました!!

はじめまして。
いつもブログ拝見しております。
12月15日の記事について質問したいです。
5つの役割というのは、機能不全家族の子どもが抱えるものと同じかと思いますが、
それらはマイナスなものとして語られることが多く、根本さんのおっしゃるように表裏一体でいい部分もあるという考え方ははじめて拝見しました。

そのため、今までは、役割は担わない方がいい状態なのかと思っていたのですが、そうではないのでしょうか。

また、グループ内で、5つの役割のいずれかが欠けた場合はどうなるのでしょうか。

もしよろしければお聞かせいただければ幸いです。

どうぞよろしくお願いいたします。
(Cさん)

Cさんの他、たくさんの方にご好評いただいたネタ元はこちらです。

「家族の5つの役割~組織・グループの問題解決に役立つ視点~」
https://nemotohiroyuki.jp/everyday-psychology/22433

5つの役割「ヒーロー・ヒロイン」「犠牲者」「傍観者」「ヒール(問題児)」「チャーマー(ピエロ)」の役割については、どんなグループにおいても、その中で自然とこの5つの役割を誰かが担うものです。

別の組織論に2:6:2の割合がある、という話を聴いたことがある方もいらっしゃる方と思います。

優秀な人材が2割、ふつうが6割、そして、役に立たない人材が2割に落ち着く、という、確か、アリの研究から生まれた組織論かと思いますが、それも仮に東大生を10人集めて来ても、やはり2:6:2の比率になる、と言われています。

人にも当てはまるグループマインドの法則なのかもしれません。
実はかつて、この法則が本当かどうかを当日勤めていた組織で調べたことがあるんです。
そしたら、上位2割の人間が全体の8割の売り上げを上げる、という数字が出て来て、また、下位2割の人間がほとんど売り上げに貢献していなかった、という事実を目の当たりにしたことがあります。

それと同様に、この5つの役割についても、仮に別の組織でヒーロー的な役割を担ってきた5人を集めても、なぜか、この5つの役割に落ち着くもの、と言われています。

これは人間が「グループ」という単位で行動する際に、そのグループをより良くするために“無意識に”その5つの役割を担おうと役割分担する、という風にも言えるんですね。

>そのため、今までは、役割は担わない方がいい状態なのかと思っていたのですが、そうではないのでしょうか。

ここでちょっと注意が必要なのは「役割」というものの捉え方です。
このブログで紹介してもらった5つの役割というのは、無意識のうちにそれぞれが担うもので、誰かに命じられたり、自らが意識的に望んだ役割ではない、というところがポイントなんです。

それぞれの役割は「ポジティブな面/ネガティブな面」の両方を持っていて(それは長所/短所など何事においても言えることなのですが)、一般的にはネガティブな面が強調されるのですが、大切なのはたとえヒール(問題児)と言えども「グループを助けるために」担うものである、ということなんです。

例えば、ふつうにみればリーダーであるヒーロー(ヒロイン)は良い役とされ、犠牲者は可哀想だけどグループを陰で支える役、チャーマーはグループに潤いをもたらす役として好意的に捉えられ、一方、問題児は言うまでもなく、傍観者も悪役として認識されることが多いと思います。
しかし、問題児はグループ内のメンバーそれぞれが持つ暗部を表現していて、傍観者はグループ内に起こる問題を客観的に見つける役割を担う点ではポジティブな面も持っています。
ヒーロー役は鼻つまみものになりやすく、犠牲者は「私ばっかり」と愚痴をこぼし、チャーマーは「自分は何ら建設的な意味で役に立ってない」とネガティブな面を感じることもありますね。

それぞれがグループをより良くするために担う、「愛」をベースにした役割である、というのが大切なポイントなのです。

だから、ヒーローは問題児と対立しやすいものの、それを自分自身の問題として受け止め、犠牲者やチャーマーの助けを元に、問題児を受け入れていくことがリーダーとしての役割となるわけです。
また、チャーマーも自分が存在しているだけでどれくらいグループに笑顔と潤いをもたらしているかを受け取ることが重要になってくるのです。

なので、一般的に「役割」というのは自分らしく生きる上で足かせとなるものなのですが、ここで言う5つの役割というのは、愛に基づいた無意識の選択である、と解釈することで、あながち悪いものではないなあ、と理解できるかと思います。

もちろん、グループの中では自然と5つの役割に分担されるものですが(それはリーダーの指示によって分担されるものではありません!)、ただ、その役割に固執するのではなく、それぞれが役割を手放すことでよりグループの一体感が生まれることは言うまでもありません。

だから、ヒーローにしても、傍観者にしても、一度その役割に着いたとしても、そこから、より自分らしさを発揮するために、相互理解を深めて、それぞれの役割を薄めていく(それぞれが5つの役割を自分が持っていることを受け入れて理解する)ことが大切になってくるんです。

繰り返しになりますが、ゆえに「それぞれの役割がグループをより良くするために無意識的に選んだ役割」であることを各自が自覚し、その役割を手放して、それを超越した状態になることがよりグループの発展、成功に結び付く、というわけです。

すなわち、誰かを攻撃することなく、それを自分自身の内にある一部分であると認識して、グループ全体を一つの意志を持った個体として受け止めていくことになるのです。

・・・だいぶ難しい話をしてしまいました(笑)
この辺はオンラインスクールのネタにした方がよかったかも・・・などとちょいと気にしております(苦笑)

>また、グループ内で、5つの役割のいずれかが欠けた場合はどうなるのでしょうか。

5つの役割と称していますが、実際のグループが4人であるケースも多々あります。
その場合は分かりやすく言えば「兼務」ということになります。

例えば、父、母、長男、長女の家族というグループを例に取れば、今度の旅行計画においては「母」がヒロイン役(リーダー)となってグループを引っ張るものの、「父」が問題児として母の「ハワイに行きてえんだけど」という意見に反抗します。
それを「まあまあ、お母さんがずっと行きたいって言ってるんだから」と長女が犠牲者として宥め、それを長男が「オレはどうでもいいし」と傍観している、という図が浮かびます。
とはいえ、その長女はチャーマーの役割も兼務しているので、険悪な家族の空気を和ますために「ほら、お父さん、こないだテレビでワイキキのビーチで闊歩するビキニ女子に興奮してたじゃない!」なんて話題をぶっこんで、場の空気を和らげようとしてくれます。

また、その同じ家族内において「長男の大学進学問題」が話題に上った時、「オレは就職も考えて国公立がいいと思う」と父親がヒーロー役を買って出た際に、長男が急遽、問題児に変わり「オヤジの考えは古いんだよ。今は私学だって就職に有利なところがあるんだよ。」と問題を提起し、母親が犠牲者となって父と長男の間を取り持つ一方、長女は「あたしは関係ないし」と傍観者を決め込む、という図式もあります。
そこで、父親がまさかのチャーマーぶりを発揮し「かく言う俺も、私立文系だけどな!」と場を和ます、なんてことも起こり得ます。
その瞬間にお母さんが突如問題児に変身し「まあ、自分が私立文系のくせして、この子には国公立だなんて自分勝手なことを言って!」と爆弾をぶち込み、長女が「でも、家計を考えたらやっぱりその方がいいんだよね」と犠牲者になり、その議論を長男が「なんか、思わぬ方向に話が行ってる」と傍観者になる、なんて展開もあります。

つまり、その瞬間瞬間において、その役割はめまぐるしく入れ替わるものなんです。

とはいえ、会社などの組織や、すっかり冷え込んだ夫婦関係などにおいて、その役割が固定化し、「いつもこのグループを引っ張んてるのはオレだよ」とヒーロー役が愚痴り、「あいつがもっとしっかりすればいいんだよ」と問題児を攻撃し、宥め役の犠牲者が「あいつも頑張ってるよ」とフォローすることが当たり前になっていることもありますね。

そんな風にそれぞれの役割は「自分の内なるマインド」が作り出している投影とも言えるので、それぞれが5つの役割すべてを担っており、それが、そのケースにおいて表出すると考えると分かりやすいのではないでしょうか?

だから、この役割が悪い、というわけではなく、繰り返しになりますけど、グループを救うために無意識的に選んだ役割なので、その立場を理解し、それを他人軸ではなく、自分軸で「私の問題」として受け止めていくのが望ましい関わり方であると言えます。
すなわち、それは各人がより成長する機会を与えてくれるものだと言えるのです。

それで、問題ばかり起こす社員をクビにすれば解決する問題でもなく、ヒーローの提案を盲目的に受け入れればいいわけでもない、と言えるんです。

「目の前に問題が起きたとき、それを自らの心の投影であると受け止めて、自分自身の問題として解決していこうとする姿勢が大切」となるわけです。

そういう目で見ていくと、誰の心にも愛があり、そして、その愛によって今の状況が作られている、ということが分かります。
変な話、機能不全家庭においても、酒の溺れて暴れるお父さんにも、育児放棄をして自分の世界で遊んでいるお母さんの中にも「愛」を見て取れることは可能で、そこに注視することで「許し」「手放し」が進むこともよくあることです。

私などはできるだけあらゆる問題を「愛」を用いて解決していこうと思っているので、誰が悪い、誰が頑張ってない、誰かのせいで、という話にはあまり耳を傾けず、その人の中にある愛をできるだけ引っ張り出していこうと思うのです。

ね?そんな健気な人なのですよ、根本さんは!(自分で言うな!というツッコミはこの際、受け入れませぬ)

・・・とまあ、この議論は理論に基づいたきれいごとであることは否めず、現場では、この考えを元に「あんたはどうしたいんや?」という自分の気持ちと向き合いつつ、ベストな選択をしていくことがリーダーには求められるわけですね。

今日は何か硬い文章になりましたが、いざとなれば、根本さんはこういう真面目な話もできるだ、ということだけ理解頂けましたら幸いです(笑)


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