“自分なりの”幸せの基準、に縛られる私たち。



皆さんはどれくらい部屋が散らかってたら「掃除しなきゃ」と思いますか?
私たちは自分なりの基準をたくさん持っていて、それにある意味縛られて生きていて、相手にも要求してしまうもの。
それを手放して自由になれると幸せがどんどん広がって行くのです。

私たちは何かと「基準」を持って生きています。
例えば、皆さんはどの程度部屋が散らかっていると「掃除しなきゃ」と思います?
意外と夫婦の問題の中に出てきます。
「私にとっては汚れてるというのに、旦那は掃除しようともしない!!」

味覚にも基準がありますよね。
「塩辛い」とか「濃さ」の基準。
数年前、がっつりと玄米菜食な生活をしていた頃。セミナーなどで外食になるとどれもこれも味が濃くて食べられませんでした。
関西から東北に嫁に行った友人は「こっちの食べ物は全部塩辛くてかなわん」と慣れるのに苦労してました。そんな地域性が作った基準もありますね。

笑いのツボ、つまり面白いと感じるのも基準がありますよね。
乳首ドリルすな」知ってます?
「毛細血管が一杯詰まってるところ、脇!」「すんのかいと思ったら、せんのかい」というアレ。
吉本新喜劇の典型的な大阪の笑いですが、先日ある人と話してたら、「見たことあるけど何が面白いか分からない」って言ってました。

先日私は奥さんと「車間距離」についてケンカになりました。
「詰め過ぎ」という奥さんと、「まだまだ余裕」という私との意見が衝突するわけです。

この基準、時には「常識」とか「ふつう」という思いとなってしまうんですね。
「ええ?ふつう、こんだけ散らかってたら掃除しようって思うでしょ?」とか言ってしまうんです。

広い/狭い、きれい/汚い、濃い/薄い、甘い/甘くない、厳しい/優しい、派手/地味、面白い/つまんない、楽しい/楽しくない、全部、個人によって基準が違います。

それが近しい人同士だと「気が合う」って思います。
「すっちー&吉田のあれ、面白いよね!」「うん、めっちゃおもしろい。癖になって頭の中でヘビロテしてる~」「分かる分かる~」って会話が成立する相手のことを私たちは「気が合う」って思います。

一方、「私、いつもじゃなくていいからたまには少しオシャレな店で食事したいと思うんだよね。でも、旦那ったら外で食べるって言ったら小汚い大衆酒場ばっかりで」と愚痴をいうSさんにとっては旦那さんと「気が合わない」ということになるのです(少なくても外食というジャンルにおいては)。

何が良くて、何が悪い、というとても主観的な基準で私たちは生きているんです。

そして、その主観的な基準に説得力を付け、それが正しいと安心するために、客観的なデータを必要とします。
「この料理、お塩が3.8グラムも入ってるわ。ぜったい塩分の採りすぎよ。あたし、辛いと思ったもの~。よく平気で食べられるね」
「このアニメ、みんなが面白いって言ってるんだよ?これをつまんないっていうあんたはセンスおかしいよ」
「この部屋にお客さん呼べる?これだけ散らかってたらリラックスなんてできないでしょ?よく平気で過ごせるね」

どれも一見客観的な指標を持ってきて、自分の主観の正しさを証明し、相手の過ちを正そうする態度ではないでしょうか?

しかも、それが「正しい」ことであればあるほど、相手は言い返せません。
一見、あなたが「勝った」ように見えるのですが、長い目で見るとどうでしょう?
相手には言えない不満が溜まって行くわけですからね。そこでは借金してるのと同じじゃないかなあ、と思うのです。

思い込みが激しいな、と思う人!はい、手を挙げて。(あ、ほんとに挙げなくてもいいですよ。電車の中とかだったら隣の人に当たっちゃいますからね)

思い込みが激しいと自覚のある人は、これをやっちゃう傾向がとても高いです。
「ぜったい、おかしいよ!」って自分の主張に“自信がある”わけで、何が何でも自分が正しいことを押し付けてしまいます。
「その服、絶対おかしいよ。なんでその色合いがいいと思うわけ?信じられない。ねえ、もっとちゃんとしてよ」って相手を全否定してしまってます。

でも、気付いてないんですよね。自分は「良かれ」と思ってアドバイスしてるわけですから。むしろ、喜ばれてもいいくらい、なんて思っちゃったりするんです。

正しさにこだわる人、はい、手を挙げて!(同上)
案外、正しさにこだわる人は窮屈さを感じながら生きてる人も多いから自覚はしやすいかな。この傾向のある人は、ほんと正論で押すのことが多いので、人から嫌われやすくなります。正しさを追い求めると幸せはダッシュで逃げていきますから、ぜひ、寛容さを身に着けたいですね。

こだわりの強い人、かまってちゃん、見て見てオーラが強い人、自信ない人たちもまた、同じ傾向にあります。

ということはみんなですね。
もちろん、私自身も思い当たるところが山ほどあって、原稿を書きながら「いてぇ、いてぇ」悲鳴を上げております。我ながらMだなあ、ほんま、Mだなあ、としみじみと思います。

「私はこう思ってる」「これは私の基準」ということに意識ができればいいんです。

先日、ツイッターで「インド人は牛食ってる僕らのことを「野蛮」とか「牛は聖なるものだから食べるな」とか言わず、「別にいいんじゃね?俺らは食わないけど」って言うから好き。」というと投稿を見付けて、ものすごく感心してしまったんです。(それで今日のネタができたのですが)

「私は私、相手は相手」
たとえ夫婦であっても、この線引きがちゃんとできているか否かって大きいと思うんですよね。

「自尊心(自己肯定感)」と「信頼」がカギ。

部屋を散らかしている旦那さんを「信頼」できていれば、「彼には彼の思いがあるんだから、いずれ綺麗にするだろう。ちゃんと掃除ができる人だから」と思えます。
でも、リビングとか共用部で、自分が正直迷惑だということであれば「私にとってこれは散らかってるように感じるの。だから、掃除するからそこどいて」と言えます。
これ「私」という主語を明確にし、「夫」を否定してはいません。

また、自尊心がちゃんとあると「分かってもらえない」「大切にされてない」「見てくれてない」等の不満は生まれません。(これらもまた「自分なんてちっぽけな存在だ」という思いの投影です)

だから、「ええ、そんなに散らかってる?これくらいいいじゃん」って言われても傷つかないんですね。「私にとっては散らかってるの。はい。どいてどいて」って言えるわけです。

ただ、そもそも論として、正しさを主張したり、相手を否定したりする裏の心理として、そのモノ自体は重要ではなく、「ふだん溜まっている不満をその出来事にかぶせて主張してる」ってことも多いんです。
要するに部屋が散らかってるかどうかはほんとうはどうでもよくて「最近、仕事ばっかりしてるし、しょっちゅう飲みに行ってるし、全然相手してくれないし、寂しいじゃないの!」という不満があるときに、部屋が散らかってるってことに気付いて「そんな汚いことしてだめじゃないの」って相手を否定するわけです。

色々な基準があって、それによって私たちは常に判断を繰り返しています。
その基準は過去の体験などから積み上げられたもので、いわば、「自分なりの幸せの基準」とも言えます。
でも、残念ながらこの基準は「自分なり」であるが故に、衝突を繰り返します。
なんせ、相手にも「自分なり」があるわけですから。

そのことに気付けると、これは自分の基準、これはあなたの基準、という風に線を引いて受け止められるようになります。
そして、できるだけ自分の基準を手放せるようになると、幸せを感じられる範囲がどんどん広がって行くのです。

とりあえず手放しの前に、まずは「自分の基準」を探してみませんか?
どんなところに自分は「幸せの基準」を置いているのか考えてみませんか?

かわいいと思う服のセンス。
そろそろ掃除なきゃと思う部屋の汚れ。
きれいと思う水回りの清潔さ。
洗車しようと思うタイミング。
安心を感じる貯金残高。
愛されてると感じられる行動。

あらゆるところにその基準はあるみたいですね(^^)

気付いたら、「これは私の基準」と意識してみてください。
それだけでも手放せるものが出てきます。

そしたら、「それってほんとに必要?」って自分に聞いてみてください。
強く必要だ!って感じるなら、自分にとってそれは大切なもの。大切なものゆえに、人に対しても丁寧にお願いする基準です。
必要じゃないかも!って感じたら、「これを手放します」と言って、イメージでそれを放り投げて見てください。
案外それだけでスーッと心が軽くなったりするので不思議ですね。
そうして心に余裕ができると、人の基準を受け入れることもカンタンになります。競争がなくなるからね。
(受け入れる、ということと、従う、ということは別物です。受け入れたのちの「ごめん!無理」ってNoを表現することもありです)

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