物事は表裏一体で、良いも悪いも思い込みや観念や判断によって決められるものです。
自分が欠点と思うところも見方を変えれば長所になりますし、周りが長所だというところも自分には欠点に感じられることもあるでしょう。
例えば、自分はがさつでいい加減な性格だと責めているのに、人はそんな部分を細かいことを気にしないおおらかな性格だと褒めてくれることもありますし、自分はわがままで感情的で人を振り回してしまうと思っていたら、自由人で情熱的な魅力を持っていると評価してくれることもあるのです。
要はどう見るか?どう捉えるか?ということなのです。
幼少期、お母さんから良く怒られたことだって同じですね。
「あんたはほんまにだらしがない」と言うのも「お母さんの基準によるだらしなさ」であり、それを良い方向に解釈すれば「あんたは細かいことを気にしない堂々とした性格だからねえ」と褒め言葉にもなるのです。
だから、「だらしがないのはダメなことだ」ときちんとしようとすればするほど、細かいことを気にするようになり、怒られないかびくびくするようになり、気が付けば長所も消えてしまうのです。
そして、おそらく「だらしがない」という部分も変わっていないでしょう。
そもそも「良い」「悪い」も自分や自分の周りの人の基準で決めていることで、そのもの自体は良いも悪いもないのですから、自分を嫌悪したいときは同じものでも悪く見え(だらしがなく見え)、気分がいいときにはそこも良く見える(まあ、お俺は細かいことを気にしないタイプだし!)のです。
まあ、ほんと人なんて実にいい加減なものですねー。
だから、欠点と思うところは直さなくてもいいんです。
見方を変えれば長所なんですから。
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さて、そうは言えどもつい欠点の方に目が行ってしまうものなんですが、実はそこにもう一つ落とし穴があります。
「だらしがない」と自分を責めることにより、「細かいことを気にせず堂々としている」という長所を生かせなくなってしまっているのです。
「だらしがない」のはいけないことと直そうとすればするほど、堂々とできなくなるわけですし、そこを出せなくなりますよね。
すると「堂々とすること」に対してコンプレックスを持つようになります。
変な話ですよね。本来長所として持っているところがコンプレックスになるなんて。
こういう生き方になってしまうと、ほんと自分の長所なんて何一つ無いように思えてきます。
欠点はそのまま存在している。
しかし、その欠点を責めることにより長所がコンプレックスになってしまっている。
結果、長所なんて何一つない。
というわけです。
ちょいとややこしい話かもしれませんが。
だから、ますます欠点は直すものでもないし、責めるものでもないと言えるのです。
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長所って自分では当たり前のことだからなかなか分かりません。
だから友達など近い人に聞くことをお勧めしています。
でも、自分でもできますよね。自己嫌悪してるところをひっくり返せば長所になるのですから。
「だらしがない」と責めてる人に「堂々としてるんだよ」って言ってもすぐにはピンと来ないし、「堂々としている」ということも良いように聞こえないかもしれません。
だから、そこはちょっと意志の力と想像力が必要。
「堂々としてるんだ」と長所として受け取ること(意志の力)と、「堂々としている人」のイメージを膨らませること(想像力)。
そして、それが自分だと“思い込む”こと(意志の力)。
ちょっと力技ですが、案外、うまく行くんじゃないかな、と思います。