“うまく”生きる秘訣→→→自分の癖を知る



私たちはつい完璧なものを目指してしまう。
穏やかになりたいと思えば思うほど、自分に怒りが許せなくなり、寒いのに電車がなかなか来なくてイライラしている自分はダメだと思ってしまう。
そういうときも、穏やかな気持ちで待っているべきであると決めてしまうのである。

そんな理想の自分と私たちは常に戦っている。
「こうすべきなのに、できない」
「本来はこうあるべきなのだ」
という姿に連戦連敗なのである。


自分はつい人に嫌味を言ってしまう。言ったら関係が悪くなると分かっているのに一言余計に付け加えてしまう。そんな自分はダメだと思い、直そうとする。改善しようと努力する。
でも、その努力の多くは「我慢」と「監視」からではないだろうか?
言わないように我慢をし、言わないように監視する。それでは緊張はますます高まり、精神的な負荷も相当なものになってしまうだろう。

私たちが完璧主義になってしまうのは「愛されないのは自分が完璧じゃないからだ。完璧になったら愛されるに違いない」と幼少期に(当時は完璧に見えた)両親に対して感じたものである。

さて、そんな欠点とも言えるべきところは直さなくてもいい、とよく提案する。
すると大抵は「でも、そんなことしたら、人に迷惑かけてしまいませんか?嫌われませんか?」と聞かれる。
皆さんもそう思うんじゃないだろうか?

実のところ、同じ欠点を持つ人でも「愛される人、人から受け入れられる人」とそうでない人に凡そ分けることができる。
同じ態度をとっても他方は許され、他方は怒られたりするのである。
理不尽極まりない反応ではあるが、そこに何が隠れているのだろう?

その違いは「自己攻撃」の度合いなのである。
その欠点を自分が責めていればいるほど、人からも攻撃されやすくなる。ここにも引き寄せの法則がある。
逆に、その欠点を受け入れ、愛せば愛すほど、あなたのその部分は個性となり、人から愛されやすくなる。それも引き寄せの法則である。

もし、あなたがその欠点を攻撃せずに、受け入れることができたとしたら、素直に人に「ごめん」と謝ることができるようになる。
攻撃性があるときは謝ることなどできない。自己弁護(言い訳)したり、逆切れしたり。

「おれって、つい、一言多いんだよね。嫌なこと言うかもしれないけど、ごめんね」と予め伝えておくこともできる。
そうすると相手はちょっと身構えてくれる。その分だけ、あなたの失言は緩和されやすくなったりもする。

でも、そこを攻撃している人は、一言多くならないように緊張し、監視をしているので、反対に「ぼくは、決して嫌味なことはいいません!」という雰囲気を出してしまう。
だから、相手は無警戒になるのである。
そこに「一言多い」あなたが現れたとしたら・・・どうなるかは想像に難くないでしょう?

自分の欠点を受け入れるのは、何も自分一人のためじゃなく、周りの人のためでもあるのだ。

そして、そこを受け入れ、愛することができたら、もうそれは欠点ではなくなり、“個性”となる。

そうなることを私自身も目指しているのだが、なかなか難しい・・・。

心理学ミニ講座

あわせて読みたい