罪悪感が人を遠ざける。もう自分を許してあげてもいいんじゃない?



罪悪案は人生最大のアトラクション。
人生ゲームを最高に盛り上げるための必須アイテム。
でも、もうそれを手放しても大丈夫。
そこから始まるゲームもまた素晴らしいものです。

例えば、自分はいい父親/母親ではないなあ、と感じています。
だから、何とか“頑張って”家族の役に立とうとします。
家事をちゃんとしたり、仕事頑張ったり、休日は家族と一緒に過ごしたり。
でも、それでも自分は十分でないし、悪い父親/母親だと思うとします。
そしたら、そういう“補償行為”もなんか空しくなります。
自分が犯している罪を思えば、この程度では償えないな、と。
そうすると家族に対して壁を作り始めます。
愛情がある分だけ、その壁は分厚く、距離を取るようになります。

そんな態度を見て、お父さん/お母さんは私たちのことを嫌いなんだ、あまり構いたくないんだ、迷惑なんだ、と他の家族は思うようになります。
寂しいけれど、でも、仕方がないな、と無価値感が刺激されて何も言えなくなります。

そういう家族の姿を見て(感じて)、そんな父親/母親はますます家族に近づけなくなります。
そんな態度をとらせているのは自分のせい、と思うし、やはり自分はここで居てはいけないんだ、と罪悪感を募らせます。
そして、ますます家族から遠のきます。

そういう気持ちは私自身もよく分かります。
出張で家を空けているとき、仕事が立て込んでいて同じ屋根の下にいるのに家族と交われないとき、など。

そのうち、仕事(家事)が理由になります。家族に近づかないための。
体のいい、言い訳になるんです。
洗濯物しなきゃいけないから、料理をしなきゃいけないから、仕事がまだ残っていて、取引先と飲みに行くから・・・。

そして、ますます罪悪感を募らせます。

そして、どうしていいのか分からなくなります。
自分が何をしているのか、理解できなくなります。

大切にしたいものがあるのに、大切にしたいものを傷つけている・・・と。
大事なものが目の前にあるのに、触れられない、触れてはいけない・・・と。

ある人はそこで権威を振りかざします。
「誰がこの家を支えてるの?」と。
「誰が稼いでいるんだ!」と。

力の証明をしなければ、居場所がなくなるから、そこは必死に偉そうにふるまいます。

でも、そんな態度を見て、家族はますます遠のきます。

もちろん、愛されていること、必要とされていることに気付いてはいても受け取れません。
信じられません。
こんな自分が必要とされているなんて、こんな自分が求められているなんて。

だから、気を使われてると感じ、また、実際、罪悪感が強くて近寄りがたい雰囲気を出してるから周り(特に子供たち)は委縮してしまいます。

そして、この家には居場所がないな、と感じます。
愛情があるゆえに、その思いは強くなります。

私もそんな風に思うことがよくあるんです。
無邪気な家族の存在に癒される一方で、自分はこれでいいのかと自問自答するんです。

そこで道を踏み外してしまい、問題を起こす人たちの話をいっぱい聞いてきたので、ますます身につまされたりします。

愛を受け取れない、信じられない、からゆえに起こること。
そして、そんな自分の気持ちは理解されないと思うこと。

罪悪感ってそんな風に本音をコーティングします。
自分でもわからなくなるくらい、罪悪感は当たり前のように存在し、首を絞めます。

罪悪感はそして、自分が大切にしているものを破壊し、自分を毒のように、汚いもののように扱い、大切なものから距離を置かせます。

そして、まるで縄張りからはぐれた猫のように、もう帰れない、と自分自身に宣告します。
その結果、問題を起こします。

そして、ますます罪悪感を強め、帰るべき場所から自分を遠ざけます。
ひたすら自己嫌悪し、また、ひそかに懺悔をしても、許されるとは思えなくなるのです。

許し、の重要性をひたひたと感じるのはそういうどうしようもない、人の暗黒な、側面を見つめているからです。

私があまり人を責める気になれないのも、そこにどうしようもない何かを感じるからかもしれません。

最近、こんな話をすることが多いんです。
自分の中にある弱さ、情けなさ、惨めさ、人としてどうかと思う汚い部分を、愛してもらいたいですよね?
でも、愛されるとは思ってないし、否定されるし、拒絶されるし、攻撃されると思っていますよね?
だから、誰にも言えずにずっと抱え込むんですよね。
そして、行き詰って今日、ここに来られたんでしょう?って。

優しいからそう言うんじゃないんですね。
人として、それが当たり前なことだと経験を通じて思うから、ただ当たり前のようにそう思うんです。
だって、あなたも人間でしょう?そんなきれいな存在じゃないでしょう?と思うから。

人生において、この罪悪感ゲーム、罪悪感アトラクションは最高の刺激物です。
人間関係のあらゆる問題、病気、事故、怪我、争い、破壊を作り出すために不可欠なアイテムとして、私たちは生まれる前に自ら望んでこのアトラクションを選んできたのかもしれません。
それこそ、ファーストパスをゲットしてまでも。
だから、簡単に許してしまったら、このゲームは終わってしまうんですね。

それで人は自分はこんなに悪い人間なんだ、ということを主張し続けなければいけないのかもしれません。

そういう意味で「許し」はそのゲームを終わらせる、ラスボスに相当します。
そう、罪悪感から見れば「許し」は敵なのです。

でも、白旗を振り、幸せになることを許し、この壮大なゲームを終わらせるためにはラスボスを倒す・・・のではなく、受け入れることが大切なのです。

 あなたはもう十分自分を責めました。
 あなたはもう十分罰を受けました。
 あなたはもう十分罪を償いました。
 だからもう、あなたは無罪です。
 だからもう、あなたは自由です。
 あなたは完全に許されています。

今の、こんな自分であっても、許されている、のです。
準備ができたら、このアファメーションを唱えてください。
自分を許すために、あの人を許すために。
そして、もう、無益な争いに終止符を打つために。

安心してください。まだまだ問題は起こりますよ!
でも、そのときは一人じゃないですから、大丈夫です。

こんなセラピーがあります。
ロールプレイでは神聖さの象徴として、ハイアーマインドの象徴として、神様を登場させることも多いんです。

あなたの罪をすべて受け入れ許してくれる神様、女神さまのような存在を一人、この会場から選んでもらえますか?

そして、その人にゆっくりと近づき、すべての罪をその神様に手渡します。
そのとき、家族や大切な人たちが抱えているであろう罪悪感も一緒に神様に手渡してもいいでしょう。

そういて、ただ慈愛深く見つめてくれる神様に身を委ねます。
ただ、抱きしめてもらうだけなんですけどね。
そして大きく深呼吸しながら、ゆったりとした音楽の調べに耳を傾けつつその罪悪感を手放すのです。

罪悪感は自立を極めさせ、孤立し、やがては死の誘惑をもたらします。
「委ねる」はそれを手放し、許すための有効な手段です。

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