いい子の仮面



いい子でいたいという思いから、相手の望むようにすることが自分の喜びであると誤解し、犠牲し、断ることに罪悪感すら覚えるようになってしまいます。
敢えて“鬼畜生”になってください。そうすると「選ぶ」ことができるようになります。

セミナーをしたり、カウンセリングをしたりしていて様々なクライアントさんのご相談をお伺いしていると、そこから「自分」が見えて来ることがよくあります。
というか、あり過ぎます(笑)
世の中はすべて自分の投影と言うのがよく分かります。

例えば、「いい子の仮面」というのも最近、とみに気付かされる一例です。

ある方がこんなご相談をしてくださいました。

「相手の言う通りにしなければ、というより、そうしたいと思ってしまう。相手の望みを叶えてやれないとそれだけで罪悪感に苛まれる。」


とても良い人ですよね。だから、私、こんな風に伝えながら“自爆”しました。

「そしたら、ものすごく疲れてしまいませんか?」

そう伝えながらハッとしたんです。

これ、俺じゃね?って。
大いに自分にも思い当たるところがあるわけです。

 相手が望むことをしなければ、というより、してあげたい、と思ってしまう。
 でも、義務感もあって必ずしも快い場合でないことも多い。
 だから、相手の望みをかなえてあげられないことがすごく悪いことのように思い、自分を責めてしまう。

そんな思い、皆さんにはありませんか?

こうした思いの背景には「いい子」や「優等生」と言う側面もありますし、「無価値感」「完璧主義」「罪悪感」と言うような痛みも隠れています。

相手の望みをかなえてあげなければ受け入れてもらえない、とか、そうすることでしか自分の価値や存在意義を見いだせない、とか、何もない自分は相手の望みに応えることくらいしかできない、とか。

とはいえ、こんな生き方は嫌だ、と思っても、自分で自分の首を締めてることに気付いても、なか手放せません。

なぜかというと、それなりの恩恵をちゃんと受け取って来ているからです。

こういう生き方をすると周りからの信頼が得られます。
ですよね?
周りからすれば、自分が頼んだことはちゃんとやってくれるのですから。(ただし、多少の「ん?ほんとうに心地よくやってくれてるのかな?」という疑問符付でしょうけれど)

そして、感謝の言葉やお礼、さらには「とても助かりました」というお褒めの言葉がもらえたりします。

私の場合は「一人ぼっちにならなくて良い」なんて思いもありました。孤独、寂しさをとても怖れているんです。

それに、こうした行動には「間違い」がないのです。すなわち、誰が見ても「正しい」ことをしているのです。
ルールに従っている安心感も恩恵の一つかもしれません。

でも、それは頑張って無理して犠牲したものですから、逆に言えば、認められなければ相手に恨みを持つことも出てくるのです。(もちろん、いい子の自分はそんな姿は見せませんけれど)
そして、犠牲ですから、疲れてしまいます。
本意ではありませんから、やがて化けの皮が剥がれます。
そして、燃え尽きたり、行き詰ったり、やる気がなくなったり、自分が何がしたいのかが分からなくなったりするのです。

そういう方に(自分も含め)お勧めしているのは“鬼畜生の勧め”です(笑)

「できないことをできなくて良い」(11/15の記事も参考に!
「無理なものは無理で良い」
「しなくないことはしない」
「やりたいことだけをする」
「敢えて見捨てる」
「わがままに振舞う」
「ダメなものはダメだと言う」

そうやって“意識的に”鬼畜生になるんですね。

ま、これが出来る人にとっては「は?そんなのふつうのことじゃん。なんで悩むの?」程度のものだろうと思いますけれど(笑)

さて、こういうパターンに大いに当てはまる私はある時にこんな気付きを得たんです。

「どだい自分にも関われる人間とそうでない人間がいる。助けたいと思う人もいれば、そうでない人もいる。会いたい人も入れば、会いたくない人もいる。それが当然なのではないか?カウンセラーだからって『誰でもウエルカム』にしてるのがいいのか?それこそが犠牲ではないのか?もっと自分の欲求に素直になっていいのではないか?」

そう思うようにしたのですね。

とはいえ、「いい人でいたい」と思いはとても強く、何度も何度もこの経験を繰り返しているわけですが。

でも、楽になりますよ。
「いい人でいる」間は決してできないことができるようになるからです。

それは「選ぶ」と言うこと。
いい人って選べないですよね。
流されることはあっても。
そして、それを「選んだ」と思い込むことはあっても。

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