楽しいことの後には、楽しくないことが起こる!?



つい先日、お気に入りの神社に参拝し、かつ、ご神体に登頂するという機会を得て、とてもすがすがしくもゆるゆるな気持ちで家に帰る途中のこと。
「あ、このルートなら、あの神社にも寄って行ける」と近くの、これまたお気に入りの社に詣でようと車を向けました。
ところが、平日の昼というのに駐車場にけっこうな車。「何か祭でもあるのかな??めっちゃラッキーやん♪」などと思いながら止める場所を探していました。
そこは特に線や車止めなどない駐車場のため、「あ、ここあと1メートル横に寄ってくれたら入れられるのに!」「なんでこんなところに止めんねん!」とだんだんイライラしてきたんです。このままではいけないと、

「いかん、いかん。せっかくの楽しい気持ちがフイになってしまう」

とさっさと駐車場を出て、「今日はご縁がなかったんだな。今日はお参りせんでもええってことやな」と思い直すことにして、その神社を後にしたんです。

最初の神社で相当浄化されてたのでしょう。その気分転換はかなりうまく行き、いい気分で帰ることができたんです。


これは小さいことだけど、みなさんも「楽しいことの後には楽しくないことが起こる」みたいな経験はありませんか?

演歌や歌謡曲にも「幸せと不幸の量は同じだけ」というセリフがあったりしますが、どうも私たちはこうした言葉に深く洗脳されているのかもしれません。

この言葉は「不幸のど真ん中にいる人に救いを差し伸べるもの」だと思うんですね。
「今は辛いけれど、人生、良いことも悪いことも両方あるんだから、これからいいことが必ず起こるよ」という意味の。

だから、「幸せなとき」には不適格な言葉だと思うのです。

でも、なぜか、私たちはこの言葉の呪縛から逃れられないようです。

これは日本人の性質である「和」や、過去の貧しい時代、戦争に負けた時代などの名残がまだ残っているのかもしれません。

「一人だけ幸せになってはいけない」とか「幸せになったら周りから嫉妬される」とか「自分にはそんな資格はない」とか、様々な感情的な観念が、楽しい自分、いい気分の自分の足を引っ張るようです。

だから、10楽しいことがあったあとは、10ネガティブなことがあって“トントン”“プラマイゼロ”と解釈して、「良かれ」と思っちゃうのかもしれません。

こうした思いは「罪悪感」がとても影響をしています。
幸せになることを禁止したり、足を引っ張るのは、自分自身のその「楽しいことは罪である」という思い込みがあるんです。

もちろん、そんな意識はないですが。

本来は「10楽しいことがあったら、10みんなと分かち合う」が正解で、理想だと思うんです。

そのためには、「長期的には自分を許し続けること」、です。
そして、短期的には「楽しくない気分になったら、さっさとその場所を立ち去ること」がおすすめです。
私がすぐに駐車場を出たのはそういう意味では正解で、成功でした。
その神社に執着していたら、きっと意地でも止める場所を探し続け、一層悪い気分になっていたはずですから。
でも、そうしてさっさとお気に入りの神社を手放せたのも、最初の神社でとてもいい体験をしたからですよね。それが素晴らしく、おなか一杯になったから、それほどこだわりがなかったんだろうと思います。

とすると、「もっと楽しむこと」「遠慮せずいいものをたくさん受け取ること」も大切な教えなのでしょう。

今、みなさんはいい気分でしょうか?
今日は楽しいこと、起きてますか?

もし、これいいな!と思うことがあったら、本当にその楽しいことを味わい尽くすしてしまいましょう。

そのためにも、まずは「今」を楽しみたいですよね!

参考になりましたら幸いです。


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