助ける側の心の痛み~災害救助に当たられた方のPTSDとそのケアについて~



震災直後から多くの消防・警察から、今回大活躍が報じられている自衛隊の方々、また医療やライフラインに携わる方も含めれば、本当にたくさんの方が被災地に入って救援・復興作業に携わっていらっしゃいます。

彼らプロ集団の働きは見事で、何万人もの方を救出され、また今現在も被災者の皆さんの生活と安心のために頑張っていらっしゃいます。
何もできずただ見守るしかできない私から見れば、本当に頭の下がる思いです。

さて、当面の役割を完了すると徐々に任務を解かれ、自宅に戻って再び日常生活を始められることになろうかと思うんです。
しかし、その後に心理的な影響が強く出てくるケースも少なくないようです。

そして、これは救援や現地で医療に当たられた方はもちろん、ライフラインの復興に尽力された方、ボランティアとして現地に入られた方にも当てはまる方は少なくないかもしれません。

「助ける側の心の痛み」の話として読み進んでいただけましたら幸いです。


職務として現地に赴かれた際、仕事だからという“義務感”だけでなく、多くの人を助け、役に立つんだ、という“使命感”を強く持たれたことと思うのです。
そして、困っている人たちを救うために、元気な自分たちが少しでも役に立とうと、獅子奮迅の活躍をされたことでしょう。

使命感というのは非常に高いモチベーションを作り出すもので、少々の痛みやしんどさなど全く感じないほどの強さを生み出します。
実際、ほとんど睡眠を取らずに駆けずり回っていた方も多いと聞きますし、普段では考えられないような仕事量をこなしている方も少なくないでしょう。

しかし、そこに広がっている世界はどのようなものだったでしょうか。

実は直接・間接的に現地のお話を伺ったことがあります。
テレビで報道されている以上に悲惨な現実が目の前にあり、目を覆うばかりの光景や、胸がかきむしられるような辛い現場に立ち向かわれたそうです。

その現実の中で、泣いてはいけないし、怖れてもいけない、そんな空気の中、活動をされた方もいらっしゃるでしょう。
自分たちがしっかりしなければ、自分たちが頑張らなければ、と強い意志で立ち向かわれた方も少なくないでしょう。

しかし、その勇敢な行動の一方で、心に深い傷を負っていることも否定できないのではないでしょうか。

例えば、無力感。
これはこうした大きな震災に立ち向かわれた方のほとんどの方が感じるものだと思います。自然の力の元での無力感、そして、自分が本当にやるべきことをしたのだろうか?という自問から来る無力感。

もちろん、彼らは立派な仕事をされました。
多くの方から感謝の言葉を向けられたに違いありません。

しかし、自分が高い使命感を持って現地入りし、必死に働いたとしたら、その言葉や気持ちを嬉しく受け止められる一方で、「他にできることがあったんじゃないか?」「もっと自分はできたんじゃないか?」という気持ちを持たざるを得ないと思うのです。

もちろん、全員がそう感じられてるわけではないと思います。
自分なりのベストを尽くし、できることをやってきた・・・そう胸を張れる方は大丈夫です。
私も救援に向かわれた方、全員がそう思えることを願って止みません。

そして、無力感の他に大きいもの、それはある種の恐怖心や不安感。
余震や危険な地域での活動は死の恐怖と背中合わせですよね。
普段から命知らずの仕事をしているとはいえ、また日常とは違った世界がそこに広がっていたとしたら、免疫がない分だけ、心は強い怖れと不安を抱くもの。
でも、その気持ちってなかなか認められないものではないかと思うのです。

「え?俺が不安を抱えてるって?そんな奴はこの仕事辞めちまえって思ってるよ」と感じる方もいらっしゃるでしょう。

もちろん、そう思える間は全然OKなんです。
ただ、もし、夢にあの光景が蘇る、フラッシュバックする景色があるなどの場合は、「実は俺、怖れてるのかも、怖かったのかも」と思って見られるといいかもしれません。
その怖れが、心の中に留まっている証拠ですから。

特に見たくない光景、信じられない景色、胸が押しつぶされるような現実と直面すると、強い使命感を持ってしても、心には深い傷を負います。

そこで、泣いたり、助けを求めたり、叫んだり、感情を吐き出していけば、その気持ちは溜まらずに流れていきます。(それでも解消するには時間はかかりますが)

しかし、そこをグッと堪えて黙々と作業に没頭したとしたらどうでしょう。そこで感じた痛みはずっと心の中に押し込まれ、蓄えられることになります。

それがやがて時限爆弾となって、日常に戻った自分を苦しめることになるのです。

夢に出てきたり、フラッシュバックでそのショックな景色が蘇ることだけではありません。ほかにも、日常に現実感がなかったり、無気力になったり、イライラして怒りっぽくなったり、アルコールの量がかなり増えたり、過食拒食の傾向があったり・・・。

それは、無力感なり、恐怖心なりを解放するための行動だったり、逆に、それらを感じないようにするための抑圧的な行動だったりするんですね。

しかも、その状態が現地から戻ってきてすぐ出てくるならば分かり易いですよね。でも、時には数ヶ月~数年後に出てくることもあるんです。
そしたら、一体何が原因なのかが分からなくなるものです。

もちろん、統率の取れた組織の場合、そうした問題が生じることを想定して、心のケアに配慮したり、体力に考慮したりして、それほどPTSDの危険性が大きくない期間で交代することもあります。(2週間で隊員がローテーションされていたり)

とはいえ、日常的ではない辛い景色を見たとすれば、被災者の方々とは違った受け止め方、感じ方になると思うのです。

しかも、「自立側」として活動する救援・救助の方々は、簡単に弱音を吐けませんよね。

「実際に家族を亡くされた方の方が辛いんだ。俺がここでくじけてどうする」

そう自分を奮い立たせなければいけません。

でも、本当は一緒に泣きたかったこともありませんでしたか?

特に亡くなった方との対面は、自分の家族、仲間を想起させて、想像以上に苦しいものと聞いたことがあります。それが何件も何件も続いたとしたら・・・?

でも、だからって投げ出すわけにはいきませんよね。
だから、その分、頑張ったんだろうと思うのです。

そして、この自立側の方々の心のケアは被災者の方に比べると注目度も低く、後回しにされやすいものと思われます。

「あの方達は大丈夫だから、強い人たちだから」と思われたりもして。

でも、同じ人間ですから、やはり辛いことは辛いし、怖いものは怖いと思うんです。

もし、こうした経験をされた方がいらっしゃったら、ぜひ、自分の気持ちを誰かに吐き出して欲しいのです。
家族に気を使うようであれば、カウンセリングも使ってみてください。
それは決して恥ではなく、これから先、更なる活躍をするためのアプローチだと思っていただけると嬉しいです。

また、被災地に家族が赴かれた方も少なくありませんよね。
不安になったり、心配になったりしながら日々を過ごされたかと思いますし、関東では余震や原発の不安も続いてますから、また別の意味で不安や恐怖心をもたれたかと思うのです。

そのときに「旦那はもっと過酷な場所にいるんだから、私はもっとしっかりしなければ」と思えるのは“愛”です。

でも、実際にしっかりして、旦那を支え、助けるのは、“あなたが元気なとき限定”でお願いしたいんです。
共倒れしてしまう可能性も否定できませんから。

そして、元気な家族の皆さんは、ぜひ、彼らの話を聞いてあげてください。
ただし、口下手な人、話したくないと思う人、そして、あまりに過酷な状態ゆえ、話すべきではないと考えている方も少なくないと思います。
だから、じっくり心を開いてくれるまで、気長に待ってあげてくださいね。

実は以前、ある災害の際に、奥様などご家族のススメでカウンセリングに来た下さった方がいました。
「何度も何度も説得されて、そこまで言ってくれるならと思い腰を上げました」と話し始めてくださいました。

因みにその奥様は「夫のことが心配で、私に何ができるでしょうか?」と以前に何度か来て下さっていたんです。
別々の場ではありますが、ご夫婦それぞれのお話を聞きながら「愛し合ってるんですね」と感じました。
やはり、救うのは愛だな、と改めて思うのです。

未曾有の災害はまだまだ続いていきます。
助ける側、助けられる能力を持っている方はまだまだこれからもお呼びがかかることがあるかもしれません。
少なくても日常生活の中で、あなたを必要としている人はたくさんいますよね。

その人たちのためにも、もし、少しでも心に不自然さを感じたとしたら、今回ご紹介した話を思い出していただけたらと思うのです。

あなたの力、笑顔に救われる人たちがいます。
その人たちのために、心を今よりもっと元気にしてあげてはいかがでしょうか。


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