「もっと誰かを愛したいとき」



*「こんなとき、どうしたらいいの?」にお答えする心の処方箋シリーズ*

誰かを愛する、ということは、おそらく私達人間にとって、もっとも大切で、もっとも偉大なことの一つに違いありません。
ワークショップやカウンセリングはもちろん、映画やドラマでも、また、何かの文章でも誰かを愛する気持ちを綴ったシーンは、心を震わせ、そして、深い感動を呼び起こしてくれます。


「どうしたらいいカウンセリングができるでしょう?」
かつて、そんな問いを投げかけた事がありました。すると、私の師匠は
「一生懸命、クライアントさんを愛してあげること」
と答えてくれました。

その答えは、テクニックに流れそうになっていた私の意識を止め、センターへと戻してくれたのです。

だから、それから私は、その言葉を後輩に贈るようにしています。

でも、いざ誰かを愛する、ということはとても難しいことです。

「もっと誰かを愛したい」と感じるとき、それは相手の反応に期待を寄せてしまうことも少なくないからです。
特にその対象が恋人や家族など近しい相手であればあるほど。

それは「これだけ愛せば、相手もきっと自分を愛してくれるだろう」という思いを、心の奥底から断ち切ることが難しいからです。

その思いは愛することではありません。
愛すること、という仮面を被ったニーズであり、その期待はやがては裏切られるものです。

でも、この違いを認識し、実行する事は非常に難しいことです。
なぜなら、人間としての深い成熟を求められるからです。

時に、相手のために、別れを選ぶことが「より相手を愛すること」になる場合もあります。
時に、相手のために、敢えて谷底に突き落とすことが、そうなる場合もあります。
時に、相手のために、嫌われ役を引き受ける事が、愛することになる場合もあります。

その覚悟、勇気を持つことは、強い怖れを引き起こすでしょう。

甘やかしたり、ご機嫌を取ることではなく、本当に相手のためになることに自分を捧げることなのかもしれません。
一時の感情に流されたり、自分を抑圧することなく、相手のために自分の行動を選択することは、とても偉大なこと。

そのためには、「我」を越え、相手に対して全身全霊で献身することが求められます。

それは自我を手放す勇気、すなわち、自己の利益、個人的感情を手放す覚悟が求められるのです。
それでいて、犠牲に陥るわけではなく、それを喜びの内に実行するとすれば、本当に成熟しなければ難しいことに違いありません。

でも、落胆する必要も、難しいからと投げ出す必要もありません。
「もっと愛したい」と感じるとき、私達は更なる成熟性を求めて、新たな成長を始めているからです。

誰かをもっと愛するとき。
カウンセラーとして、それを問われたとしたら、抽象的ではあるけれど、今の私はこう答えます。
相手のために、一歩、前に踏み出すこと。

それは孤独などではなく、大きな勇気と共に、至福を感じられるものと思うのです。

あなたは、愛する人のために、今、何をしてあげたいでしょう?

心の処方箋


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