(10/17)自分が毒である観念



すっかり冬空な大阪です。
さわやかに気持ちよく、空気がとても美味しい。
いやー、素敵な季節です。

前回のミニコラムで「まだまだ半袖」と書いたんですが、その翌日から早速長袖を着始めました(弱っ)。
今度の休日には衣替えを本格化させる予定です。

*--*--*--*--*--*

友人がやっているカフェまで足を伸ばして行ってきました。
少し遠いんですが、居心地がよく、そのつもりはないものの長居をしてしまいます。
住宅街の中にあるせいか、静かで、のんびりとした風情です。

しかも料理もパンもとても美味しい。
オーガニックで、手作りで、ベジタリアンで、というあまりに健康的な食事のため、ついつい反動で、自分を汚したくなるくらいです(笑)
よって、店の外に出て一服(当然、店内は禁煙のため)。
それもまた美味で・・・。

*--*--*--*--*

ここ最近の流れは「罪悪感」。
その研究家を目指さん勢いで、いろんなタイプの罪悪感をお伺いしています。

その現れ方の一つに「自分は毒である」という観念があります。

自分が毒な存在だとしたら、自分の愛するもの、大切なものをどう扱うでしょうか?
自分の近くに置きますか?
それとも・・・。

そう、多くの場合、自分が大切にしたいものであればあるほど、自分からすごく遠くに置こうとします。
大好きなものを遠くに置くのは辛いものですが、そうして相手を守ろうとするんです。

ある人は、自分に近づけさせないようにします。
暴力や暴言を使う場合もあれば、わざと嫌われるような行動を取る場合もあります。
そして「僕(私)は穢れた存在だから、近くに来ちゃ駄目」と相手を遠ざけようとします。

または、コンプレックスを使う場合もあります。
「私の体はとても醜いからきっとあなたを苦しめてしまう。だから、近づかないで」という風に。

特にこうしたコンプレックスはセクシャリティと繋がり、口、胸、性器、体毛などへの嫌悪感(コンプレックス)として表に出てきます。

これが相手に対して拒絶する態度として出てくる場合はまだ分かりやすいんですが、無意識の中に入ってしまうと逆の形で出てくることもあります。

つまりは、自分ではなく、相手に暴言、暴力を使わせる、コンプレックスを刺激させるなどして、自分から相手を遠ざけようとするんです。
これはちょっと理解が難しいですね。

自分に近づけさせない他は、逃げ出そうとするパターンもあります。
これは理解しやすいかもしれません。
「自分は毒な男だから、あなたを愛する資格なんてない」と相手のもとを去るんです。
で、いつも孤独感を抱え、自分を傷つけてしまうんですね。

また、罪悪感があると自分を愛させないように持っていくこともあります。
相手を選ぶ際に、自分を愛せなさそうな人を好きになってしまうんです。
典型的なものは不倫。
相手には帰る家があるとすれば、自分を愛させることを制限させてしまいますね。
他にも、暴力、借金などの問題がある相手を選んでしまう場合には、自分が毒である観念が影響している場合も少なくありません。

そして、それがパートナーシップの問題として出てくるときには、お互いに同時にその観念を使って、相手から遠ざかろうとしてる・・・という見方もできます。
私も彼も、お互いに自分が「毒である」と思っていて、相手を守るために、同時に距離を置く(問題を作る)んですね。
私は自分のことをすごく嫌い、彼も自分自身を嫌っているケースがあります。
そうすると自分をひどく扱う一方で、パートナーを大切にしようと犠牲してしまうんですね。
その結果、癒着してしまい、共依存の問題として浮かび上がります。

こういう罪悪感からくる毒の観念は根深く、自分自身ではもう当たり前のようになっていることも少なくありません。
だから、なかなか気づけないことも多いんですよね。

そういう場合は、その観念を手放すために、その毒を浄化させるようなセラピーを使っていきます。
「アク抜きしましょうね~」なんて言いながらセラピーを始めていきます。
すぐには拭い去れないものの、徐々に緩和されていくことが多いですね。
そして、面白いなあ~と思うんですが、自分のその観念が浄化されていくと、今度は自分自身が人を浄化できるような(癒してあげられるような)アプローチが可能になっていくんです。
つまりは、自分のアクを抜いていくと、パートナーのその観念も癒してあげられるわけです。

改めて、人ってすごいなあ・・・と思うんです。


あわせて読みたい