自己承認~自分をありのままに認める、ということ~



自分をありのままに認めるために、その一つの方法として自己承認を妨げる要素に目を向ける、という方法があります。
そして、「自分軸」になれば、自己承認もしやすくなるのです。

自己承認とか自己肯定感とか自信などの言葉が飛び交う我がブログ記事でございますが、どう違うねん?と言われると、「まあ、どれもおんなじかな?」なんて適当な回答を返す今日この頃です。

自己承認というのは、自分を承認する、ということでして、そもそも「承認」とは何かと言えば、デジタル大辞典さんによれば

1 そのことが正当または事実であると認めること。「相手の所有権を承認する」
2 よしとして、認め許すこと。聞き入れること。「知事の承認を得て認可される」

ということです。

「デジタル大辞典」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/

つまり、自己承認とは「自分自身を正当なものとして認め、よしとして認め許すこと」と言えるでしょう。

この辺から「起きていることはすべて正しい」とか「何も間違ったことは起きていない」とか「あなたがそう感じるのは自然なこと」などのブログ上の言葉が生まれると思ってもいいでしょう。

よく「あなたはあたなのままでいいんです」というセリフがありますが、要するにそれが自己承認ということですね。

逆に言えば、私たちは

「この私はOKだけど、あの私はNG」

という風に自分自身を分類してるわけですね。

・きちんと約束を守るところは〇
・朝が弱くて起きられないところは×
・ラインの返信をマメにするところは〇
・めんどくさがりで部屋が汚いところは×
・ちゃんと仕事をしてるところは〇
・家賃や光熱費をちゃんと払っているところは〇
・野良猫を追い回してるところは△
・幸せになれない人ばかりを好きになるところは×
・寂しがりやなところは×
・すぐに人肌が恋しくなっちゃうところは×
・ちゃんと相手のことを気遣えるところは〇

なんて風にね。

で、「〇」のところは自己承認できてるところ、認めて、許してるところですね。
なので、問題は「△」や「×」のところです。

これを何とか「〇」にしようぜ!!というのが自己承認プロセスと言うわけです。

で、そんなことは言われんでも分かっとるがな!とおっさんが騒ぎ出す前に、その自己承認を妨げてる要素ってなんやねん?という話をするわけです。

これがまたブログではよく登場する言葉たちなのですが、ここはひとつ、纏めと復習みたいな感じで読んで頂ければ幸甚です。

〇正しさの罠

「どうするのが正しいのか?」「どれが正解なのか?」「これは間違っているのか?正しいのか?」と言う基準で物事を見てしまうと、当然ですけど自己承認できません。

例えば、「部屋のお片付けができないなんておかしい。いい年した女子なんだし!」という風に。

よく正しさよりも幸せを選ぼう!という話をしていますが、正しさは論理的なものなので、感情は付いていけません。
しかも、例えば「お片付け」一つとってもどれくらい片づけられているかどうか?というのは主観での判断です。(例えば、うちの奥さんは「もう部屋が散らかっててイライラする!」とよくおっしゃってますが、私からすればそれでもきれいに片付いた部屋に見えます)

そうした主観的判断と論理は相容れないものなので、その正しさを追求しているうちは、いつまで経っても自分は間違ってると思っちゃいます。

そもそも感情何て矛盾の塊なので、正しさを主張すればするほど苦しくなるものなのです。

〇理想主義

正しさに似てます。
「こうあるべき」という姿を追い求めるものです。

「本来ならば○○であるべき」とか「いい年なんだから○○くらいできて当然」とか「○○ができないなんて恥ずかしい」と言う風に理想の自分を掲げ、そうでない自分を責めるスタイルです。

これは皆さん思い当たるところがあると思います。
この理想もずっとイタチごっこになります。

〇正解主義

これも正しさに似ていますが、私は少し違う区別して使っています。
正解主義というのは「物事には必ず正解があり、それ以外は間違っている」という考え方で、時に「正解を含む選択肢は示されている」という思いも付いてきます。

現実社会では、正解は無限にあり、そこに至る道も当然無限にあるのですが、ひとつしか答えがないと思っているので、その答え探しに躍起になってしまいます。

〇ルール、観念。

正しさや理想主義は「~すべき」「~してはいけない」等のルールをたくさん作ります。
このルールは常に自分を縛り付けるもので、多くは客観的な視点で作られます。

そのため、自分の言動や感情を客観的に判断しようとするので、とても窮屈で、束縛された感覚を持ちます。
そのため、このルールはできるだけ手放したいところなのです。

〇比較・競争の罠

誰かと自分を比較したり、誰かの足を引っ張ったり、けなしたり、上から目線で見たり、卑屈になったり、と言った、他人との比較・競争の罠にハマると、当然ですけど自己承認はできません。

周りの目が気になったり、人に振り回されやすい方も実はこの比較競争の罠にハマっていると言えますね。常に意識が外に向いているわけですから。

〇自己嫌悪

自己承認の反対言葉が自己嫌悪だと思っていいと思います。
自分のことが嫌いだったら、そんな自分を許し、受け入れることなんてできませんよね。
嫌いな奴を承認するなんてしたくないですから無理もないことだと思います。

などなど。

いかがでしょう?

ああ、やっぱりか!!と思うところはありましたか?

じゃあ、どないしたらええねん?という話をするんですね。

簡単に言えば「理想主義や正しさや競争や正解主義を手放して、自分のことを好きになればええやん」ということです(笑)

なんじゃそれ?って感じですけどね(笑)

じゃ、それを総括するとどうなるねん?というと、これまたありきたりですが、

「自分軸になる」

ということではないでしょうか。

「私」を基準に考える。
「私」に起きてることをすべて正しいという前提で見る(他が間違ってる、というわけではありません)
「私」を理解する。

例えば、お掃除が苦手だとする。それをいいか悪いかって外から基準を持ってきて判断しちゃってるわけですね。

目の前に「お掃除が苦手な私」はどうしたって存在してるわけです。
そんなのダメ!と言ったって、それくらいできて当然でしょ!って言ったって、情けないわ!と言ったって、存在してるもんは存在してるんです。

自己承認の第一歩て、実はとてもシンプルなこと。

「その存在を認める」ということです。

かつて私は「電車の運転手みたいに指さし確認しましょう」なんて提案をしてたこともありました。

「お掃除が苦手な私がここにいる。以上!」なのです。

そこに体重計や物差しや温度計を持ってきて客観的基準で測ろうとするからおかしなこと(=自己否定)になるんです。
そもそもそんなもの、心の世界では存在してないですし。

そして、そんな自分がいるぞ!以上!と思えるようになったら、

「それが私だもんなあ」

って声に出して言ってみるわけです。

それを本気で思えるようになったら、その要素に関しては許し受け入れたことになるのですね。

私のカウンセリングやセラピーのやり方ってのは、この自己承認をしやすくなるために、「なぜ、あなたがお掃除が苦手なのか?」を説明することにしています。

「ああ、そういうわけで、掃除が苦手にならざるを得なかったのよ。それってしゃあないことなのよ。」と言われたら納得しやすいでしょう?

ま、そういう分析がめんどくさくなったら

「お掃除が苦手?いいじゃん。それで。じゃ、掃除が得意な人と結婚すんねんな」

って言い放って終わりなんですけどね。

さて、そんな話を2時間かけてお伝えするライブにいらっしゃいませんか?
要するに、心理学講座、なわけですけど。

大阪では7/24(月)に、東京では7/27(木)に開催します!
どちらも19:00-21:00にて開催です。

「自己承認の心理学~ありのままに自分を認めるとはどういうことなんだろう?~」

http://nemotohiroyuki.jp/event-cat/19044

というわけで、今日もステマでした~~~~♪

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