モノを大切にできなかった、といつも思うのは、無力感がなせる業なのでしょうか?

感情が先で行動が後、とよく言います。
無力感が先にあって、それを感じさせる行動を採る、というわけです。
その奥にはもちろん、ラスボスがいることは間違いありませんが、許すのはそのラスボスではなく、そのラスボスを助けたかった自分なのです。

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根本さま
いつも感じて、考えてることについて根本さんのお答えをお聞きしたいです。
わたしはよく片付けについて悩むのですが、重い腰を上げて片付けはじめて、決まって感じるのは無力感です。
ひとつひとつのものを手にとり、所在を考え収めたり捨てたりしながら「管理できなかった」「多すぎる、多すぎる」と思います。
何年も何年もそんなことをしているので、モノを減らすために物品だけでなく、物品が増える状況(仕事や勉強や趣味、付き合いなど)も減らして行きました。
残ったものに丁寧に関わりたいと思うからです。
でも気がつくと同じ思いの中にまたいます。
「また、、管理出来なかった(大切に出来なかった?)」と。

この繰り返しに目的があるとしたら、何なのでしょうか…?
無力感を感じるため?
心理学的な見方だと親を救えなかったなどでしょうか。
確かに私は母を救いたい、でも子供で無力で救えなかったという経験があります。
でも母は今ではすっかり幸せで元気で、当時も辛い部分は確かにあったけど相対的には幸せな(愛されて守られた)生活だったと思うようになりました。
子供故の杞憂だったと今では思っています。
なので頭では理解してても自分の中に無力感というのが深く刻まれているのでしょうか…?
それとも私は昔から、諸行無常といいますか、、そういう感覚に水が合うところがありまして…それを無意識に何度も感じようとしているのでしょうか…?
(Yさん)
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そもそも「重い腰を上げなきゃできない」ってところで、片付けにさほどモチベーションを感じていないってのが分かりますよね。

ね?こういうお仕事してると揚げ足取りが上手になっちゃうんですよね~
軽く書いた言った一言が命取りになるざんすよ(笑)

Yさんもお気付きのように「無力感を感じるため」というのは大いにありありありありでしょう。

片づけをして「無力感を感じる」というのは、むしろ、無力感を感じるために重い腰を上げて片づけをする、と考えた方が自然です。

私たちの行動は「感情が先、行動が後」ですからね。

だから、重い腰(ね?何度も嫌味のように繰り返されるでしょう?辟易するでしょう?まだまだですよぉ)ってのは「無力感」と言い換えてもいいでしょう。

意識するのはモノを手に取った時かもしれませんが、すでに「お片づけをしよう」と思った瞬間から無力感さんたちが「おぉ、来たか。俺たちの出番だぞ!」と気合を入れてるわけですね。

無力感=親を救えなかった、としてしまうのはいささか先走ってる感もありますが、実際、Yさんにその体験があるなら、なるほど根拠はそこにありますな、ということになります。

でも、お母さんは今幸せで元気でしょう?そうすると無力感なんて感じるのはおかしい、と思うのは「時間」に捉われてる現代人の考えなんです。

そもそも時間ってのがあるのか、ないのか?という話にもなるんですけど、心の世界では時間なんて関係ありません。

例えば、私は今、深刻な沖縄病が再発をしています。
冬にもかかわらず沖縄は好天が続いているらしく、あちこちであのきれいな海の写真がアップされ、また、沖縄在住の友人たちは半そでの写真を送ってきたり、「今日は寒かったから長袖を着ています」というふざけたコメントを残したりしてるんです。
しかも私、もう彼の地に半年も行っていないんですね。
その半年前のことを思い出すに、とても半年前とは思えず、1,2年前のできごとのように遠く感じるんです。(←これが言いたいためだけに沖縄のネタを持ち出しました。)

皆さんも、ずいぶん前のできごとなのにほんの数日前のできごとのように感じたり、逆につい先日のことがずっと以前のできごとのように感じられたりするでしょう?

年末年始に久々に古い友人と再会した方も多いと思いますが、そうすると10年、20年の年月をあっという間に飛び越えていろんな記憶が蘇ってくるでしょう?

そう、時間なんてあってないようなもんなんです。

だから、「今現在」のお母さんは幸せで元気だったとしても、「心の中」のお母さんが幸せでなかったら、未だにその無力感に捉われてるってことは珍しくないんです。

また、無力感や罪悪感などの感情は「お母さん」がターゲットであったとしても、許すのは「私」なんですね。

かつてお母さんを助けたくてあれこれ頑張って、でも、助けられなかった、という思いがあると、「その時のお母さんを救えなかった私」のことを許せなかったりします。

しかも、助けたかった人が自分が助けずに元気になっちゃったら・・・ちょっと悔しいというか、より無力さを感じると思いません???

つまり、許すのは「かつてお母さんを助けたかった自分」なんです。
これが無力感の源泉になっているのかもしれないです。

さあ、そんな自分を許しに、そして、愛してあげるのはいかがでしょうか。

諸行無常ですかあ・・思わずwikiってしまいましたよ(笑)
https://goo.gl/SbBp70
「、仏教用語で、この世の現実存在はすべて、すがたも本質も常に流動変化するものであり、一瞬といえども存在は同一性を保持することができないことをいう。「諸行」は、この世の一切の事物と現象を指し(有為法)「無常」とは、一切は常に変化し、不変のものはないという意味。」

Yさんにとって諸行無常てどんなイメージですか?
これって見方を変えれば「今、この瞬間に生きよう!」という力強いメッセージとして受け取ることもできるし、「今、あるものは今にしか存在しないのだから感謝し、大切にしよう」という心がけに受け取ることもできます。
でも、それを諦念として「この状況はずっと変わり続けるのだから意味はなし」という風に捉えることもできるでしょう。

昔から自分の情熱に消火器をぶちまけることが多かったですか?
あまり情熱的になることを喜ばない、というか。

もし、そういうところがあるならば、無力感という壁の向こう側には“自立系武闘派情熱女子”の熱い血がたぎっているのかもしれません。

それくらいかつてのYさんはお母さんラブだったのでしょうか???

さて、

>モノを減らすために物品だけでなく、物品が増える状況(仕事や勉強や趣味、付き合いなど)も減らして行きました。
>残ったものに丁寧に関わりたいと思うからです。
でも気がつくと同じ思いの中にまたいます。
>「また、、管理出来なかった(大切に出来なかった?)」と。

Yさんにとっていい状況ってイメージできますか?
「管理できてる状況(大切にできてる状況)」てイメージできますか?

物品が増える状況も減らすって素晴らしいですよね。
これが出来てるって最高だと思うんですよ。

そこでは自分なりに丁寧に扱っているつもりなんでしょうか?それでも「できなかった」と思うんでしょうか?

今日、ぜひ時間を取って家の「物品」を見つめてほしいんですね。

「これを自分はどんな風に扱いたいんだろうか?どうなって欲しいんだろうか?」

そう思いながら一つ一つの物に触れてみましょう。
そして、同時に

「このモノが自分に与えてくれたものって何だろう?」
「これに感謝できるとしたらどんなことだろう?」

いつもいつも同じことを言っててワンパターンな気がしますが、モノに感謝する、ということを意識的にやってみると色々と出てきますね。
無力感も出てくるかもしれないし、強い自己否定が出てくるかもしれないし、逆に純粋な気持ち、愛の気持ちが出てくるかもしれません。

今、モノが無力感を思い出させてくれるならば、モノに感謝することでそれを緩和してあげることもできます。

それから「好き」「嫌い」で取捨を選択するのもアリだと思いますよ。
好きなものを部屋に置く習慣はこの感謝と幸せを充実させてくれるものです。

ぜひ、今夜あたりチャレンジしてみてください。

「母親を助けたかった私を許す」というのはインナーチャイルドワークの応用をよく用います。

その当時の自分に会いに行く、と思ってください。
そして、その自分を認めてあげる、褒めてあげる、抱きしめてあげる、愛してあげる、そんな気持ちで子どもの自分と向き合います。
それを自分の心が温かい気持ちで満たされるまで続けます。

これはとてもシンプルですけど、各方面から効果があったぞ!と聞いている方法です。
ぜひ、お試しください!

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