「愛を受け取る」の深い話。

「受け取る」というのは相互依存レベルで起こるもの。
だから、「与える」と同義であり、同時に起こります。
そこでは虐待するほどのひどい親の中にも「愛」を見つけることすらできます。

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根本さんの記事でたまに見かける『愛を受け取る』という表現について、まだ理解しきれずにいます。

家を出て行った親や、過干渉な親・祖父母の話の時などに「愛を受け取りましょう」のように出てきたりする時は、なんとなく「愛されてなかったと思ったけど、家を出たとしても愛してくれていたし、厳しい躾けをするのも、不器用なりに愛してくれていたと実感することかな」みたいに読み取っています。

では、「どうしても、愛されてたと感じられない場合」は、「受け取る愛がない」こともあるのでしょうか。(虐待されてたとか、本当に愛されてた形跡を見つけられない場合)

または、「厳しすぎる躾けなど、愛があったとは思うし、愛を受け取ると捉えることも出来ないけど、あんな愛は嬉しくない」みたいな虚しさを感じるパターンとか……。

どうも、私の中で『愛を受け取る』のイメージがわきにくい時もあったり、「愛はあったと理解をしたとして、満たされるのかなぁ」などど考えてしまう時もあります。
(Hさん)
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どストライクな質問を頂きました。ありがとうございます。
確かにこの辺はものすごく難しい概念ですよね。
論理的に語ることはできても、実体験がないとなかなか通じにくい話かもしれませぬ。

難しいなあ、と思うとワクワクする性質なので今日も楽しめそうです(笑)

まずは「愛を受け取る」っていうのは
「その人が自分に向けてくれた愛を感じ取る」
という風に解釈します。

ただ、ここで問題なのは「その人が自分に向けてくれた愛」と「私が欲しい愛」が異なっていることが多い、ということです。

例えば、子どもの頃に親が「勉強しなさい!いい学校行きなさい!」というのは多くの場合、愛から発せられます。
「勉強していい学校に行けば、いい友達ができるし、いい会社にも就職できて、この子は幸せになれる」という思いからです。

ところが、それを言われる子どもは辟易して「ママは僕のこと好きじゃないんだ」みたいに感じちゃうこともあります。

ママが与える愛と子どもが求める愛が異なってる場合です。

ところが大人になるにつれて、ママの思いが分かってくると「ああ、あれはママなりの愛情表現だったんだ」と気付けるようになります。
その時、大人になった“僕”はママに愛されていたことを実感し、感謝することができます。

こういうことは学校でも恋愛でも職場でも夫婦でも頻繁に起きていますよね。
その時は分からなかったけど、あとから振り向けばそこに愛があった・・・という経験。
皆さんも少なからずありませんか。

では、なぜ、大人になるとママの愛が受け取れるようになったのでしょう??
それは子どもの頃に分からなかった「ママの気持ち」「ママの立場」が見えるようになったからではないでしょうか。

つまり、愛を受け取れるには「相手の気持ちが分かり、相手の立場に立てること」が必須条件になるのです。

ここで心理学的な見方をすると、「勉強しなさい」と命令口調のママは「自立」のポジションにいます。一方、「ええ、やだよー。そんな愛はいらないよー」という子どもの“僕”は「依存」のポジションにいます。
その後、“僕”は反抗期に精神的自立を始め、大人になっていくと、ママと同じ「自立」のポジションに移行します。
そうすると、ママの気持ちや立場が理解できるようになる「対等な関係」になっていきます。
すなわち、それが「相互依存」という状態です。

相互依存関係ではお互いは対等なので相手の立場も分かるし、自分の気持ちも分かります。
そうすると、相手の愛に気付くことができ、感謝の思いが生まれるのです。

依存の時は「欲しい」だけ、
自立の時は「支持、命令」だけ。
でも、相互依存になると「感謝」に変わるのです。

Hさんが例として挙げてくださった、

>または、「厳しすぎる躾けなど、愛があったとは思うし、愛を受け取ると捉えることも出来ないけど、あんな愛は嬉しくない」みたいな虚しさを感じるパターンとか……。

という状態はまだまだ「依存~自立」をうろちょろしてる状態なんですね。
頭で理解できるところは自立だけど、感情的には求めてるわけで依存なんです。

だから、愛を受け取るというテーマの時に必ず紐づいてくるのが「その人なりの愛し方って何?」てことなのですね。

「愛が欲しい」と思っている依存の状態では決してそれは理解できません。
また、自立の立場では「愛の与え方」についての論争になり(これが反抗期)、やはり理解は難しいんです。
相互依存のマインドに移行して初めて「ママの愛し方って何だろう?」というところに意識を向けることができます。

そこで初めて「ああ、ママはいい学校に行って、いい仲間ができて、いい仕事に就くことが幸せだと思っているんだな。それを僕に言ってたんだな。それはママの愛だよな」という風に受け取ることができるのです。

それで

「あなたのお父さんはどんな風に人を愛する人ですか?」
「あなたの旦那さんの愛し方は何ですか?」

という質問が生まれてくるのです。

Hさんが書いてくださってる

>「愛されてなかったと思ったけど、家を出たとしても愛してくれていたし、厳しい躾けをするのも、不器用なりに愛してくれていたと実感することかな」

ということなのですね。
ただ、そこに感動や感謝がどれくらい伴うか?が重要ですね。
頭で理解するところからもう一歩踏み込んでいくと、その実感から感謝や感動が生まれます。
そうすると「おぉ!!私はめっちゃ愛されてた!!!ありがとう!!おかん!!」なんて思いになるんです。

さて、

>では、「どうしても、愛されてたと感じられない場合」は、「受け取る愛がない」こともあるのでしょうか。(虐待されてたとか、本当に愛されてた形跡を見つけられない場合)

この辺はほんとうに難しいところなのです。
セミナーやカウンセリングでこの問題を扱う場合はその人の状態を見ながら話をさせていただくんですね。

虐待の痛みが強い、見捨てられた痛みが激しい場合にはその痛みをまずは癒すことが先決です。
だから、その子の親に愛があっただの、なかっただの、なんて話はまだまだできません。

また、不満や怒りでいっぱいになっているときもまた愛を理解する段階ではありませんね。
だから、その場合は親ではなく、別の人の愛に目を向けたりします。
「親は愛してくれなかったけど、他に愛してくれる人はいなかったの?」という風に。

そもそもこうした考え方の前提にあるのは「愛がなければ私たちは生き残れない」という前提からです。

ロッカールーム・ベイビーズという話があります。
また、似た話にローマ帝国時代に子どもが産まれ過ぎたときに時の王がした実験の話もあります。

Aというグループの子どもたちにはミルクを与え、おむつを替え、そして、抱っこをして、言葉をかけて育てます。
一方、Bというグループの子どもたちにはミルクを与え、おむつも替えますが、それだけです。
そうするとBのグループの子どもたちは10歳になるまでにほとんどが事故や病気でこの世を去っているのです。

おぞましい実験なんですけど・・・要するに私たちは誰かに抱かれなければ、言葉をかけられなければ生き残れない、という話なんです。

ということは虐待されていたけれど大人になれた人、ネグレクトや捨て子だったけれど大人になれた人は、親じゃないかもしれないけれど、誰かに愛されていた、ということが言えるのです。

それは施設のスタッフかもしれないし、親戚のおばちゃんかもしれません。
学校の先生だったかもしれないし、クラブの顧問が親代わりに自分を引き受けてくれたのかもしれません。
『愛されていなければ私たちは大人になれなかった』という前提があるのです。

だから、私は「誰があなたを愛してくれたの?」という目で見ていくことができます。
そして、そういう目で探すのでそこに「誰か」を発見することができます。

ここでは親ではなくても構いません。
誰か自分を愛してくれたと実感できる人の愛を受け取っていくんです。

ここからは上級編。
さらに一歩踏み込むと、虐待を繰り返すお父さんの中にも愛を見つけることもできます。
虐待が愛だ、というわけではありません。
なぜ、彼が虐待しなければならないのか?というところに目を向けていくのです。

宮古島できれいな海と空を眺めていて昼からビーチでビールなんぞを飲んで「めっちゃいい気分や~」って時に子どもを殴りたいと思う親はいません。
虐待するときの気分ってどんななのでしょうね?
よほど心がめちゃくちゃなんじゃないでしょうか。
よほど自分に絶望してるんじゃないでしょうか
すごく自分を責めてるんじゃないでしょうか。

じゃあ、本当のお父さんってどんな人なんだろうね・・・。
こうして「許し」のプロセスはスタートしていきます。

そうすると「本当は優しい人なのに、あんなことがあって人生がめちゃくちゃになったんだろうなあ」と理解できるようになっていきます。
もちろん、時間はかかることが多いですが。

その時にこんな思いに至るんです。

「お父さん、本当は愛したかったんだろうな。もっと素直に愛情を表現したかったんだろうな。」

虐待され、ネグレクトされて育った人が、その思いに至った瞬間何が起こると思います?
信じられないかもしれませんが、号泣しちゃうんです。

お父さんの愛を感じるからです。
与えてもらっていないにも関わらず受け取れちゃうんです!!すごいでしょ?人間って(笑)

お父さんが本当は与えたかった愛を感じて号泣しちゃうんです。
そして、さらに信じられないことに大粒の涙を流しながら出てくる言葉は「ごめんなさい」なんです。

その時またあることに気付くんですね。
そんなひどい親だと思っていたけれど、自分は大好きで、愛していたことに。
だから、助けたかったし、救いたかったし、そのために一生懸命やってきたことに。

そして、自分の中の愛に気付いたときに「許し」が生まれます。

お父さんが自分にしたことなんてどうでもよくなります。
ただただ、お父さんへの愛を感じられるので至福感がやってきます。
そして、「お父さん、ありがとう」と言えるようになります。
「お父さんの子で良かった」と。

「愛を受け取る」という行為の行きつく先は「自分の中にある愛に気付く」というところなんです。
だから、感謝の思いが生まれてきます。

そもそも「愛を受け取る」ということも内なる愛との共鳴ですものね。

そうすると、とっても大切なあることが分かってくるんです。

「受け取ること=与えること」

相互依存レベルで起こることですからね。
与える人と受け取る人が対等であるならば、与えることと受け取ることはイコールになってしまうんです。

「受け取る」を言い換えると「受け取ってあげる」であり、
「与える」を言い換えると「与えさせてもらう」ですから。

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