人を疑う心がなくなりません。物事をあるがままに見るにはどうしたらいいのでしょう?



それは物事をあるがままに見ようとしているのではなく、正しく見ようとしているのでは?
疑いフィルターがあるなら、それに気付いていればOKなんです。

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いつも学ばせて頂いて本当にありがとうございます。
人を疑ったりする心がなくなりません。疑ったりして見ているから相手がおかしい?と思えるのか…本当に怪しいのか…。
人を自分の気持ちではなく、あるまま、物事も人のこともそのままみることはどうしたらできますか。
すぐに疑ったり、不安になってしまうのは私が性格が悪いのでしょうか…
裏切られたことがあり、それから人を信じることができません。教えて頂けたら嬉しいです。
(Mさん)
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Yさんシリーズが終わって今日は主流派のMさんです(笑)
シンプルな命題を頂けると色々深堀りできていいですね~。素敵です(笑)

さて、今日も元気に揚げ足を取って行きましょう~!!!

>すぐに疑ったり、不安になってしまうのは私が性格が悪いのでしょうか…

こういう風に思っちゃうのも仕方がないと思うんですが、実はこれ、見事なトラップなんです。

(誤)「すぐに疑ったり、不安になってしまう」だから「私は性格が悪い」
 ↓
(正)「私は性格が悪い」だから「すぐに疑ったり、不安になってしまう」

つまりMさんの中に「私は性格が悪い」という思いが元々あるんですね。
だから、「疑ったり、不安になったり」したときにそこに結論付けちゃうんです。

もし、Mさんが「私は性格がとても良い」と思ってたとするでしょう?
そうするとどうなると思います?

(誤)疑ったり、不安になったりしなくなる
 ↓
(正)「この私が疑ったり、不安になったりするような出来事なんだ」と受け止められる。

※単に誤・正という表現が気に入っただけです(笑)

そもそもMさんの中に「人を疑うことは良くないことだ」という思い(観念)がありますよね?

これもまた自己否定なんです。

「裏切られることがあって人を信じることができなくなっているので、私は人を疑ってみてしまうんです。」

ということですよね?

実はこれが「そのままに見ること」だと思うのですが、いかがでしょうか??

こういうことを書くと賢明な読者は

「ええーっ!?でも、それって『疑いフィルター』で見てるってことだから、そのまんまを見てるんじゃないんじゃないですかー????」

なんて思っちゃうかもしれません。
ところが、そもそも

>人を自分の気持ちではなく、あるまま、物事も人のこともそのままみることはどうしたらできますか。

これが「人」に可能かどうか?なんですよね~。

Mさんのように思う人っていい人が多いんですが、それって

「正しく見る」

ということを求めているのであって、

「そのまま見る」
「ありのまま見る」

ということとは違うと思うんですよね。
どうでしょうか?

フィルターのない状態でその事象を見ることが「ありのまま」「そのまま」見ることだとしたら、理論的には可能だけど、実践的には不可能なこと、ではないかと思うんです。
そして何よりも偉大なる自己嫌悪くんにまた「自分をいじめる理由」を提供することになるんじゃないでしょうか???

こういうのってゴルフに例えると分かりやすいと思うんです。(まあ、僕はゴルフしないのですけど(笑))

本当はまっすぐボールと打てるといいんだけど、自分の癖ってありますよね。
スライス(右に曲がる)したり、フック(左に曲がる)したりする癖。
あるいはゴルフクラブの癖。
それにコースに吹いている風の影響もありますよね。

ゴルフ・プレイヤーたちはそうした癖や風を読みつつフェアウェイにボールが転がるようにスイングします。

例えば「自分はこのクラブで打つとスライスしやすい上に、今日は左から右の風が吹いているから、まっすぐのスタンスで打ったらOBになっちゃうな。だから、左の方向を向いて打てばフェアウェイをキープできるだろう」という風に。

もちろん、スライスしないように打てたらいいんだけど、その癖は普段の打ちっぱなしなどの練習のときにコーチに教えてもらって直すもので、コースに出てしまえば、今の自分の癖に合わせるほかありません。

分かります?この見事な例え!(自画自賛)
思わず、おぉーーって我ながら感動してしまいましたよ(笑)

根本くんが「コース」を「日常生活」に、「打ちっぱなし」を「セミナーやカウンセリング」に例えてるにも気付きました???

Mさんの話に戻せば、
「自分は人に裏切られた経験があってまだその傷が残ってるから、どうしても人を疑ってしまうんだな。今日出会ったAさんのこともついつい怪しく見てしまうんだよね。
案外、雰囲気ほど悪くない人なのかもしれないけれど、信じて裏切られるのは怖いから、少しはそういう目で見ておこう」
みたいな感じですね。

で、そのトラウマとなってる「裏切られた経験」については、打ちっぱなしの練習ならぬ、セミナールームなどで修正していけばよいわけです。

ありのままに見る、そのままに見る、ということに「疑い」などのフィルターも含ませてしまえばよいと思うんです。

「自分は疑い深いからAさんのことも疑ってしまうけれど、実際はそんなに悪い人じゃないかもな」でいいんじゃないでしょうか?

>疑ったりして見ているから相手がおかしい?と思える

というのも確かなんですけど「それも今の自分じゃん!」でいいんじゃないでしょうか?

『物事をありのまま、そのままに見るためには、今の自分をありのまま、そのままに見ることが大事』って言うと名言ぽいでしょ?(笑)

スライス癖のある人が、少し左を向いて打ち出すように、疑い癖のある人は「疑ってみてるんだな」という目で人を見ればいいんです。
だから、自分の癖に気付いていればOKなんですよね。

でも、そうすると「じゃあ、私の癖って何?どれが癖なの?教えて!」と自立系武闘派ナントカな人たちは思うわけですが、その癖が何かが分からなくても「私はフィルターを通して世間を見てるらしい」ということに気付くだけでもいいんです。

怖いのはフィルターを付けてることに気付かずに「私が悪い人に見えるんだから、絶対この人は悪い人よ!」という思い込み、決め付けです。
これは人の心を遠ざける魔法になりますね。

「私にはこれが○○に見えるんだけどなあー」って言う風に「私には」とか「私は」という意識があれば大丈夫です。
「自分が思うことが真実!正しい!」となってしまうのが怖いですね。

さて、蛇足かもしれませんが人は自分の気持ちでしか物事を見れない生き物だと思ってます。

例えば、職場の飲み会で、ちょっと気になる、かわいい後輩君が飲み過ぎて道端でリバースをかましてると思ってください。
「あ、どうしたの?大丈夫?」って下心満載で近づいていくでしょう?
で、優しく背中をさすりながら「ほら、あたしに恩義を感じて好きになりなさい!」って念じるでしょう?

でも、それが、あの嫌味ばっかり言う上司だったらどうする?
同じように「部長、大丈夫ですか?」って近づいていきます?
「ざまーみろ、ふだんの悪行が祟ったんだよ!」とツバ引っ掛けてやるでしょ?

同じように酔いつぶれてるんだけど、相手によって(すなわちその人に感じる自分の気分によって)対応って全然変わるはずなんです。

宮古島に行くとぼろぼろのミニカが法定速度以下で走ってたりするんですね。
そんなこと大阪の街中でされたらイライラっと来ちゃうんですけど、島タイムに馴染んでくると、まあ、それもよしか、風景でも眺めながら行くか、とのんびり走ることができます。

同じことなんですけど、自分の気分によって態度も感情も全然変わります。

それが人間ってことなんだろうと思います。

「正しさ」を求めると「幸せ」が逃げていくってよく人間関係で言いますが、実はこれ、何に対しても言えることなんです。

疑ってしまうものはしゃあないんです。
それを改善したいなあ、ってときは、セミナーやカウンセリングに行けばいい、と思えば良いのです。

そう思えたら楽になりませんか?

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